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2003年04月25日

嘘六百・第24回/「ある制作者の挫折と転落」(1)

――あの時、人間がこんなに簡単に壊れてしまうんだって事を、初めて知った。
今からちょうど10年前、1993年の事だったろうか。

当時の僕はAM3研に所属して、まだ計画中の「アミューズメント・ミニテーマパーク」(そう、後のジョイポリスだ)向けの大型ゲームを作っていた。

テーマはズバリ、スターウォーズ! 最初に小口部長から業務命令を授けられた時は、我が耳を疑ったね。だって、あのスターウォーズだよ。SF映画の代名詞。ArtooとThreepioに誘われて往く、目眩くスペース・アドベンチャー・サーガ。エピソードIV~VIのシナリオを暗記していたぐらいイカれてた僕は、その伝説(サーガ)に参加できる喜びから、一も二もなく飛びついたんだ。

それがサーガどころかドゥーム(破滅)に続く道だとも知らずにね。


企画の概要は、僕の与り知らぬ所で既に決まっていた。

使用基板はAM3研・初のCGボードMODEL-1で、筐体は半球面ドームプロジェクターを使った、16人対戦型のフライトシューティング。半球面ドームっていうのは、ナムコの「O.R.B.S.」みたい(というかそのまんま)な物で、要は、普通のゲームをするために必要な有効視野だけでなく、その周囲の誘導視野(ヒトの空間座標感覚に影響を与える)もスクリーンで覆っちゃおうという、フライト物にピッタリの豪気なシステムだ。だけど、まだ製品化はされておらず、日立製作所の映像事業部とセガとで共同開発中という代物。完成期日は未定、というよりむしろ、完成期日を早める為にゲーム企画側から貢献して欲しいというのが、僕に与えられたミッションだったんだ。

今なら正しく判断できる。これが僕の手に余る企画だったという事を。

その頃の僕は全くの若僧で、ゲームを2本ほど完成させたとはいえ、それは「売り逃げ」とでも評すべき製品で、まあ云ってしまえば失敗作を通じてゲーム制作法を覚え始めたばかりのヒヨっ子に過ぎなかった。

覚えたノウハウだって、アクション限定。少なくとも、対戦フライトシューティングなんていう、社内の誰も制作のノウハウを持っていないゲームを創り出せる程のクリエーターでなかった事だけは確かだ。ましてや初めての3D。基礎ライブラリすら整っていないモデル1基板。その上、コストも効果も見えない開発中の半球面ドームときた日にゃあ、もう不確定要素のてんこ盛りだ。出来る訳ゃない。

でも当時の僕は「出来ない」とは叫べなかった。当時のAM3研では「企画は新しい物を生み出せて当然」だと思われていたし、小口さんのおだて方が上手かったというのもあるし、それより何より、僕の目には、憧れのスターウォーズ・サーガに連なる事しか見えていなかったのだから! そのスターウォーズ版権も、ゲーム性に縛りを加えて僕を苦しめていたのは皮肉な話なんだけど。

徹夜で呻吟っても仕様書は1枚も上がらず、眠い目をこすって日立に向かっても技術的なブレイクスルーは見つからない――そんな日々が続く内に僕は、徐々に壊れていったのかもしれない――。

次号、本格的に壊れます!

このシリーズは、嘘六百を始めたトキからやりたかった内容だ。
ほら、ドリマガには定期的に「ゲームスクール」のパブが入るぐらい、ゲーム「クリエーター」ワナビー君が読者だったりするワケじゃない(想像)。そんな彼らに冷水を浴びせるのも一興かな、と(笑)。

少なくとも、この手の挫折→再生という体験を単なる「残酷物語」以上に昇華して書けるのは、ゲーム業界広しと云えども、俺ぐらいなワケだし。

あと、人気のないこのコラムに、連続モノのサスペンスを導入して、テコ入れしたかったという意味もある(笑)。ヒッチコック先生、トリュフォー先生、如何なもんでしょう?

投稿者 tsurumy : 2003年04月25日 06:00

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