2003年10月17日

嘘六百・第35回

ああ忙しい忙しい。TGS前は忙しい。この原稿も僅か1時間で書き上げなければならないよ。

なので今回はライトなネタを書き殴ろう。ずばっ! ばしっ!

私事で恐縮だが(というかこの連載は全て私事なのだが…汗)、先日、ちょいと高めの合コンに参加した時の事。自己紹介で「仕事はTVゲームを作ってマース」と云った瞬間、女のコ達がさーっと引きまくって吃驚した。

そんなにオタ臭いイメージがあるんだろうか?

今は昔、プレステが華やかなりし頃ならば、お茶やお華と並んで、ビーマニやらパラッパやらも妙齢の女性の習い事として一般的だった訳で、「ゲームを作っている」なんて云おうものなら、羨望の眼差しを一身に受けられたものなのだが…。嗚呼、時は流れてしまったのだなあ。

ところが、だ。「プロデューサーやってマース」と云ったらば、またもや風向きが変わってきた。女のコ達が寄ってきて「どんな仕事なんですかぁ?」の連発だ。

どうやら彼女達は『プロデューサー』という言葉に、つんく♂や小室哲哉に代表されるような、華やかなイメージを持っているらしい。あるいはTVの番組制作者か。ぶっちゃけて云えば、お金と利権を持ってそうなイメージ。何とも利に聡い娘ッコ達であることよ。

でもまあ、私はお金も利権も持っていないが、ちやほやされるのは大好きなんで(笑)、テキトーに話を合わせて電話番号を訊いて、その場は終えたのであった――。


私の妄想う(おもう)プロデューサー像には、金も利権も華やかさも関係ない。資格は唯一「誰よりも強い対クソゲー力を持っている事」これに尽きる。

例えば初代「グランツーリスモ」のプロデューサーは吉Pさんという方で、この人は同時に「クラッシュ・バンディクー」と「レジェンド・オブ・ドラグーン」「サルゲッチュ」のPでもあった(現在は、SCEアメリカの制作担当副社長)。

元々開発畑の人間ではないが、MBAも持っていて、とにかく「仕事の上手い人」。

誰よりも大きな夢を描いてGTを創り出したのは紛れもなく山内一典だが、各自動車メーカーに渡りをつけてアポを取ったり、(名前は云えないが)マスターアップ間近までゴネていたとある自動車メーカーとの交渉を成功させるなど、発生する雑事を叩き伏せて回り、全てを「勝ちパターン」に乗せていったのは、間違いなく吉Pさんの力だと云える(これには山内も賛同してくれるだろう)。

マーク・サーニーの事を書いた連載の第13回で、「クソゲー力」=「ゲームをつまらなくさせる有象無象の些事」と書いたが、今やゲームはゲームだけで完結しておらず、ビジネス的な雑事も発生するし、それらがゲームの面白さをボディブローのように削る事も多々ある。

ならば、例えゲームの実作業に関わらなくても、迫り来るビジネス的な問題を叩き伏せる事もまた「対クソゲー力」なのだし――それによって品質に貢献する事、それこそがプロデューサーの役割だと考えるのだが、どうだろう。


(ピッタリ1時間で書き上げました!)

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2003年10月10日

嘘六百・第34回/「オンラインゲーム」(2)

今は昔、もう18年ほど前になるだろうか――まだ1200bpsのパソコン通信(死語)な時代に、とある草の根ネット(これまた死語)を訪れていた事がある。

そこではリアルタイムのチャットが盛んで、夜ともなれば8chあるホストのモデムはいつもbusy。常連が夜毎集い、馬鹿話に花を咲かせていたものだった。

そしてそこの常連の一人に、「姫」と呼ばれる25歳の千葉の女のコがいた。女性の数が絶対的に少ない時代だったので、かなりチヤホヤされていたと思う。コケットリィな書き込みが魅力的で、「崇拝者」を引き連れて、チャットルームに常駐していたものだ。それこそ、「あなた何時寝てるの?」という程に、24時間いつでも。

――が、一度オフ会で会ってみたら納得いった。「姫」は、推定身長140㎝に推定体重も140㎏で、B=W=H=140㎝! 喩えるなら、田村亮子選手の尻の穴に消防車のホースを突っ込んで、最大圧で放水した様な見た目のコ。
それが、例のコケットリィな喋りを目の前で使いこなす様は、幻滅というより大爆笑。

なんでも聞いた話では、小学生の頃から結婚資金として貯めていた定期預金を崩して、1ヶ月20万円以上の電話代を払っているらしい。本人はネタのつもりで嬉々として喋っていたが、想像するに、両親は娘の結婚に危惧を抱き、せめて持参金だけでも!と、定期預金を躾けたのであろう。しかし娘はそんな両親の必死な想いを無下にするかのように、全てを電話代に注ぎ込んだという次第。実生活では味わえない「男にチヤホヤされる気持ち」を味わいたいがために――。

私達、男性参加者は皆、一様に暗い気持ちを抱えながら家路についた事を覚えている。そしてオフ会以降、「崇拝者」は居なくなってしまったのだった。


以上は18年前の話だが、似たような話はインターネット時代の今でもそこらにゴロゴロ転がっていると思う。人間が人間である限り、時代に拘わらずコミュニケーションの楽しみも苦しみも同じように存在する。そしてオンライン・コミュニケーションによってのみ成立する「ゲーム」とやらは、どんなにゲームの振りをしていても本質的にゲーム(=創作)なんかじゃなく、容姿に不自由な女のコを引きこもらせて「姫」として振る舞わせ、その代償として、両親の数十年に亘る努力を無駄にする――ホストクラブであり、キャバクラであり、Q2でありテレクラであり――実生活に浸食してそれを壊す「遊び」だ。それは何も生み出さないし残さない、非生産の極み。

私は「TVゲーム娯楽」というものは、人間の脳味噌とコンピュータとをインターフェースを介して繋ぎ、その結果、脳味噌に特殊な興奮を起こさせる物だと考えている。過去31年間はずっとそうだったし、これからもそれがメインストリームだろう。接続を絶てば(多少の依存は形成されるが)、個人の存在自体を脅かす事はない。

ゲームは1日1時間、なのだ。

オンラインゲームも、そのパラダイムの上で成立すべきだと考える私は、頭が古いのだろうか?(この項、続く)

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