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2005年11月05日

評論は誰のためのモノなのかと疑問に思ったコト

『テレビゲーム解釈論序説/アッサンブラージュ』(八尋茂樹)を読み了えて、根本的な疑問が湧いてきた。

「この本は一体誰に向けて書かれたんだろう」、と。

同じく最近読んだ『パックマンのゲーム学入門』(岩谷徹)ならば、よく分かる。「入門」の謳い文句に偽りなく、これはゲーム業界を志す人間に向けて書かれたモノだ(鶴見にはちょっと食い足りなかったが、良書と云える)。だが、『テレビゲーム解釈論序説』は、読み了えた今も全く判らない。


発行元の紹介文(上記リンク参照)によれば、こう書かれている。

テレビゲームファンはもちろん、テレビゲーム批評家、クリエーター、研究者にもお薦めの必読書であり、今後のテレビゲーム研究の基本文献!
『ドラクエ』がRPGの本場であるアメリカではなぜ人気が無いかを考察した日米文化の違いや、日本では許される内容でも他国では検閲の対象になるということを、比較文化論・社会論として分析しているところなどは出色である。ゲームに何故かはまり、多発している性犯罪解読に役立つ。(編集担当者より)

「ゲームに何故かはまり、多発している性犯罪」(編集担当者より)

あのー、これは担当編集者が「ゲームと性犯罪に因果関係アリ」と書いちゃってると解釈してよろしいんでしょうか? 「センセーショナリズム」とか「イエロージャーナリズム」、『ゲーム脳の恐怖』とかのワードが脳裡を過ぎりますが、気のせいですか?

ならば本書は、テレビゲーム批評家にも、クリエーターにも、研究者にも薦められるべきではあるまい。テレビゲーム批評家ならぬ「批判家」に向けた本なのであろう。


とまあ、いきなり「単なる揚げ足取り」とも思われかねない書き方で始めたが(もちろん違うが)、この書き方から、本書に対する鶴見の失望っぷりを推察してもらいたい。

例えば、上記紹介文にも書かれている「『ドラクエ』がRPGの本場であるアメリカではなぜ人気が無いかを考察した日米文化の違い」とやらだ(この辺りは鶴見の本業に関わる部分でもある)。第五章「テレビゲームからみた日米文化比較」によれば、著者は、その原因を以下の要素にみている。

  • 識字率の違い(米ユーザーは大量のテキストを読まない)
  • 躾による忍耐力(米ユーザーは忍耐力が無い)
  • マンガ文化という下地(米ユーザーはデフォルメされたキャラを好まない)
  • 宗教文化の違い(日本の宗教観に基づいたストーリーは好まれない)
  • RPG人気の好循環(ブーム→コミュニティ→RPGが根付いた)

確かに間違ってはいない。しかし、致命的に浅い

「識字率」に関しては、そもそもユーザー層のデモグラフィ(=年齢分布。ひょっとしたら収入階層別の分布も)と関連づけなければ論じるコトのできない話題だし、そうでなければ反証だって挙げ得る。

「忍耐力」に関しては、日本人の「受容的勤勉性」について触れているが、ならばRPG以外の「受容的勤勉性を必要とするジャンル(例えばアドベンチャーゲーム)」はアメリカでは売れていないのか?

「マンガ文化」との関連については、鶴見も大いに同意するトコロではあるが、それを唯「キャラクター表現」のみに求めれば十分なのか? フキダシによって限定されたマンガ内の台詞表現と、ドラクエの台詞表現との類似性や(堀井雄二は漫画原作もやってましたな)、マーケティング的な親和性(少年ジャンプの存在)等も、本質に大いに関わると考えるのだが。それに比べれば、「宗教文化」の表現の差異など、枝葉末節に過ぎないのではないか。


確かに労作であるコトは認める。第一章で、日本版ゲームソフトがアメリカ版にローカライズされた際の変更点を、ゲームソフト22タイトルにあたって調査し、そこから「日米文化の違い」を浮き彫りにしている。22タイトル(日米両バージョンなので44本!)を分析的にプレイするのは、さぞかし大変だったコトだろう。

でもそれって、ローカライズ担当者に話を聴いた方が早くて正確で網羅的なんじゃないの? 順番が逆でしょ?

いやもう、全編こうなのだ。発売されたゲームソフト内の「表現」を採り上げては、人文学的アプローチから解釈を試みているのだが、その採り上げ方があまりに限定的であり散発的であり、著者がどこへ収斂させたいのか見えない。

鶴見の認識では、作品の「解釈論」というか「解釈論的評論」とは、それを読んだ後にその作品に対する理解が一層深まり、作品(あるいは似たような作品群)を鑑賞する上で新たな目を持たせてくれる、そういうモノだと捉えている。本書のように、作品群を包括して論ずるような場合には、何らかの発見的視点が無ければ「単に解釈してみました。以上」というオチになってしまうだろう。いくら「解釈論」のしかも「序説」と銘打っていても、このアプローチを発展させた先に「ゲーム評論」が成立するとは考えにくい。もし成立したとしても、それは「ゲームプレイ」「ゲーム制作」にフィードバックされるコトのない作品論となるだろう。

ちなみに、「アッサンブラージュ」という言葉の意味を調べてみたのだが、

非芸術的な既製品や素材をそのまま寄せ集めたり、組み合わせたりして作品化する美術的技法

この本は、(著者には悪いが)「作品」とは(まだ)云えないだろう。「習作」だ。ならば3200円は高すぎる。WEB上で無料公開して揉まれるべきだ。

カテゴリー: 六百式見聞録

投稿者 tsurumy : 2005年11月05日 17:06

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コメント

その昔(20年以上前の話か)、アメリカではInfocomという会社が文字だらけのアドベンチャーゲームを出していたことについては突っ込まなくてもいいんですか?

投稿者 御熊様 : 2005年11月05日 22:10

だから「デモグラフィ」の話を出してるんじゃない。往時の「趣味としてのコンピュータゲーム」と、現代の「娯楽としてのビデオゲーム」は、質的にも変化していると思うし、その結果、ユーザー層はとんでもなく変わってしまっている(はず)。そんな明らかに不適な例で突っ込んだら、論点がボケるだろうよ。
トリビア自慢なら自分でサイトを立ててやってくれたまい。

投稿者 tsurumy : 2005年11月06日 20:09