カテゴリー 「新・嘘六百」 のアーカイブ

2007年05月28日

JASRAC kills our rosy future

またJASRACが勝訴しちまった。

音楽保存サービス:ストレージ利用は著作権侵害 東京地裁(毎日インタラクティブ)


「複製業者」によって複製された著作物は、
いわゆる「私的複製」にあたらない、というの著作権法の条項を、
インターネットのファイル保管サービスにも適用した判決。
つまり、サーバーを経由するコトが「複製」にあたる、という判断だ。

# ちなみに、判決を下したのは、
# 「一太郎&花子の販売差し止め」の判決を出した
# トンデモ裁判官として有名な高部真規子(ググってみよう!)。


だから、
インターネットのファイル保管サービスに著作物を保管すると――

違法。
保管した本人だけでなく、サービス運営者も、違法。


つうコトは、
自分で契約しているレンタルサーバーだとしても、
たとえそれが自分専用のファイル倉庫だとしても、
そこに著作物を保管すれば――

違法。
レンタルサーバーの会社も違法。


さらに云えば、
会社のメールから、自分の自宅メール宛てにファイルを添付しても、
それはメール「サーバー」を介するワケだから――

違法。
プロバイダも違法。Yahoo!だろうがOCNだろうが違法。


いずれJASRACは、音楽に満ち溢れた世界を殺すだろう。
全てのインターネット通信はエシュロンで盗聴されるだろう。
ユビキタスな未来なんて永劫にやってこないだろう。


「音楽文化の振興に貢献」?

ケッ、笑わせやがるぜ。
これぐらいやってから云いやがれ。
音楽文化の振興を図るために

tsurumy at 16:40 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年05月24日

音楽文化の振興を図るために

思いついた!


JASRACが、YouTubeを買収すればいいんじゃね?


いやそれは半分冗談だけど(半分マジだけど)、

JASRACが音楽専門のアップローダーを立てて、
ダウンロード毎に使用料を権利者に払うってのはどうか。
これ、技術的には(曲の判別とかレート変更とか)
それほど難しくなく出来ると思う。

使用料の財源は…今のバカ高い音楽使用料と、広告収入。
つまりユーザーは、タダで音楽をやり取り出来るの。

ただし、アップロードする時点で、
クオリティは「視聴」レベルに落とされちゃう。
いい音で聴きたかったら、お金を払って
「製品版」をダウンロードしろって話。
(簡単にリンクで飛べるワケだね)

これなら、完璧にJASRACが管理出来るワケだし、
違法サイトをどれほどキツく取り締まっても文句は出ないよね。

JASRACの理念が「音楽文化の振興」っていうのなら、
今の時代には、ここまでやらないとダメなんじゃね?
音楽は、広まってナンボなんだから。

(※このネタ、半分本気だよ)

tsurumy at 19:05 | リンク | トラックバック (0)

2006年10月10日

「アーケードTVゲームリスト」発売のコト

以前、「それは『ポン』から始まった」アミューズメント通信社)という本を紹介したコトがある。アーケードゲームの歴史を克明に綴った良書だ(→それは「ポン」から始まったを含むエントリー

ウチの記事を読んで「それポン」を購入された方もかなりいらっしゃるようで、紹介した鶴見も鼻高々だ(笑)。ま、良書は須く広まるべし、ではあるのだけれど。


そして…本来は「それポン」の巻末付録となるハズだった「アーケードTVゲームリスト―国内・海外編」が、この度やっと発売になるんだという。

なんでも、1971年~2005年に発売された、国内・海外合わせて約1万にもならんとする業務用TVゲームについて、各タイトルに使われている基板システムや、製造・販売面でのライセンス関係を、ほぼ全て網羅したんだという。

すげえ。すげえ労作だ。まだ読んでないけど(つうか「読む」モノじゃないけど)、労作に決まってる。ナニ1575円? 安い安い。即購入だ!


「それポン」購入者には案内が行ってるハズだけど、そうじゃない人も、この際「それポン」と併せて買っちゃえばいいと思うよ。

tsurumy at 23:43 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年09月21日

携帯ゲーム企画のコト

そういえば「風のリグレット」って、
携帯ゲーム機とか携帯電話とか、
iPodとかに移植されてたりしないの?
(ま、携帯電話だとデータを持てないか)

別に、遊びたいワケじゃないけどさ。
いやむしろ、風のリグレットは積極的に拒否(笑
でも、あの手のゲームを、今まさに、遊びたい。
あれほど、携帯に向いたモノって無いよね?
画面無しの、音だけのゲーム。

画面を見るのはもう疲れた。
目をつぶったまま遊びたい。
満員電車の中でも遊びたい。
ベッドで寝しなに遊びたい。

画面を見なくてもいいんだったら、
生活の色んな隙間に入り込めるワケだからさ。
こんなに携帯機に向いたモノってのも無いと思うワケよ。

逆に云えば、あれを据え置き機で出したのが
そもそも大きな間違いだって話ではあるけれど。
「ユーザーが面白そうに遊んでいる『絵』が見えないゲーム」
が失敗するなんて、
鶴見がアーケードゲームを作っていたはるか昔から、
議論の余地なく、当たり前のコトなんだからさ。

※だからゲーム制作者は
※ロケテストやフォーカステストを
※ウォッチしなければならないのであるよ

音だけのゲーム。
ドラマCDの価格帯で作れば、上手くいきそうな気が。
「聴くやるドラ」とか作れそうな。
あ、実はシューティングゲーム的なモノも作れそうな。

なーんだ、まだまだ色々出来るじゃん。

tsurumy at 00:04 | リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年07月21日

脳はダマされやすいぞ!なコト

ちょっとしたイリュージョンをお見せしよう!

〉〉〉まずはココをクリック!〈〈〈(※要JavaScript)

ウィンドウがポップアップして、画像が出るハズだ。画像の上にマウスカーソルを乗せると切り替わってしまうから、この段階ではちょっと離しておこう。

んで、次の手順を踏んでみるべし。

  • まず、中心の黒丸を30秒以上見つめる

  • 黒丸を見つめたまま、マウスカーソルを画像に乗せる

  • しばらくしてから、眼球をちょっと動かす

いかがかな?

大半の人間には、2枚目の白黒画像がカラーに見えたハズだ。しかも、最後に眼球を動かすまではその状態が続いたと思う。

よく知られた話ではあるけれど(うろ覚えだけど)、網膜には色を検知する細胞と、明るさのみを検知する細胞とが混在している。そしてこの錯覚は、色を検知する細胞のリフレッシュサイクル…その隙を突いたモノなのだろう。ひょっとして、脳の問題じゃなくて、眼の細胞の問題なのかもしれない(タイトルは「脳はダマされやすいぞ!」なんだけどね)。


元ネタは、johnsadowski.com。リンク先にはPhotoshopによる制作法(英文)も載っているんで、試してみると面白いかも。出来る限り彩度の高い画像でやるのがコツだ。

念の為書いておくと、同じ画像をコピーして、1枚は「イメージ>色調補正>彩度を下げる」、もう1枚は50%グレーを描画色にしておいてから「編集>塗りつぶし(描画モード:輝度)」→「イメージ>色調補正>階調の反転」とするだけだ。


ちなみに鶴見が使った画像は、前乗ってた車で富士スピードウェイを走った際のモノ。もうちょっと晴れた日の画像を使った方が良かったかなあ…。

tsurumy at 03:08 | リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年07月14日

オンライン・コミュニティ/サービスと社会、のコト

発熱地帯経由で読んだのだが、IT系のいわゆる「コンサル(コンサルタント)」な方が、大ヒットソフト「どうぶつの森」にビジネスチャンスの匂いを感じた、みたいなコトを書いている。

「どうぶつの森オンライン」がもし始まれば!?(日経BP)

一口に云えば、小学生女子からOLまでをユーザー層に抱え込む「どうぶつの森」を核にSNSを立ち上げれば、mixiに匹敵する凄えモノが出来そうですよーカネの匂いがぷんぷんしますよー任天堂さんアニメなんか作ってる場合じゃないですよー、といったような内容だ。

こうしたコンサル的物云いに強い不快感を抱かずにはいられない。


いやね、ビジネスチャンスを嗅ぎつけるのはいいワケよ。むしろドンドンおやんなさい。別に「ビデオゲームは古典的ビデオゲームであるべきだ、IT系(笑)の流行に擦り寄るとは何事ぞッ!」とか思ってるワケでもないし、ヒット商品の周辺にはそういう話もあって当然だと思うワケだし。ゲームとて時代の子、世間の潮流と軌を一にしなければ未来はないんだから。

ただね、近年、インターネット上のコミュニティと、社会という既存のコミュニティとの齟齬が問題になりまくってるワケじゃない。2ちゃん、出会い系、ネットゲー引きこもり、オークション詐欺、Winnyによる情報流出、etc…。

今、様々なオンライン・コミュティ/サービスは、いかに社会に溶け込んでゆくかを模索している最中なのだと思う。アマゾンとかの純粋サービスはいち早く溶け込んだ。Winnyは国策捜査で潰された。YouTubeは無法地帯(笑)。じゃあゲームは? ――少なくとも、小学生女子とOLとを一緒くたにして巻き込めるオンライン・コミュニティ/サービスが成立し得るほどの社会状況――いわゆる「リテラシー」やら「社会的位置付け」が成熟しているとは、とても思えない。たとえ商売として成立したとしても、事件が起きまくって後に禍根を残すコト必至だ(これはもう、確信を持ってそう云える)。先のコンサル氏は「企業の寿命30年の壁を越えるための成長戦略支援を行っている『百年コンサルタント』を創業」した方なのだそうだが、そんな近視眼的な手近のカネ儲け重視の姿勢じゃ、企業は百年保たないヨ?

そうした大局的見地からすれば、任天堂のWiFi対応の戦術は、カルティベーションが重視された素晴らしいやり方なワケだし、今現在に限って云えば、下手にオンライン・コミュニティなどに手を出すより、アニメなどで非ゲーム層にキャラクターと世界観を広める方が、将来的にはよほど大きな実りを手にするコトが出来るだろう。そもそも、どうぶつの森でSNSとか開いちゃったら、Wii版が成立しないって。


思うに。

さんざん書いているコトだけれど、ビデオゲームはその魅力の根拠を脳の活動においている(と断言しても良いだろう)のだからして、社会からの生理的な拒否反応を受けやすい宿命にある。これはビデオゲームならではの特殊性だ。しかも今は明らかに、十年前のような「家庭vsゲーム」という構図だけでなく、「社会vsゲーム」を考えなければならないフェイズにある(ココちょっと誤解招きそうな表現だなあ…例えるならつまり「インベーダーブーム」は社会問題にもなったけど、でもアレはやはり「家庭vsゲーム」問題に過ぎなかった、とかそういうコトね)。そうした立ち位置を十分理解した上で「今」の潮流に乗ったビジネスは、ビデオゲームというモノを、より一段の高みに乗せるだろうけれど…考慮しない浅いビジネスは、ゲームの将来に禍根を残すだろう。

――つうかね。

もうなんか、ウンザリなワケですよ。面白いモノっていったら、DAMのランキングバトルとかMJとか三国志対戦とか、今のインフラを利用してはいるけれど、アイデア自体は昔からあったモノばかり。別に否定してるワケじゃないよ。これらは、今のオンライン「ゲーム」の立ち位置ってモノをよくわかってる。んでもって面白い。でも残りは、どうでもいいような愚にもつかない、ユーザーを衰弱させてカネに変換するコトを目論んでるようなオンラインゲーム(とされるモノ)ばかり。鶴見に云わせれば、反社会的な「パブリック・エネミー・ナンバー1」、そんなのが、うたかたのように浮かんでは消えて浮かんでは消えてる。

ユーザーを衰弱させるサービスっていったい何なんだ。コミュニティの囲い込みと云えば聞こえはいいが、「ユーザーの依存」に依存しているモノばかりが目に付いて、腹立たしいコトこの上ない。

で。

「『ユーザーの依存』への依存」といえば、まず思い浮かぶのがパチンコ業界だ(トートツな話題転換だが、ゲーム業界と社会の関連についての思考実験には、パチンコ業界の観測がとても役立つのである)。例えば、先日の阪大生による母親殺害事件なんぞをみてみよう。この事件には、パチンコ(パチスロ)依存症が深く関わっているらしい。

阪大生母親殺害:殴打後に首を絞める 強い殺意反映か(毎日新聞)

…容疑者がパチンコ依存症に陥っており、母親から注意されてもやめられず、繰り返し注意する母親に対する不満が一気に爆発して殺害に至ったとみている。(中略)容疑者がのめり込んでいたのは、スロット型の「パチスロ」でギャンブル性が強い。パチンコ依存症になるとパチンコをしたい気持ちが抑えられなくなり、多額の借金を抱えたり、人間関係まで壊すケースもある。すべてにパチンコを優先させてしまい、仕事や勉強の意欲がなくなるのも特徴。

このニュースを読んで、ごく普通の人間はどう感じるだろうか?

その嫌悪感こそが、ゲームに対するネガティヴな報道や言論(ゲーム脳とかね)に対して、ゲームをやらない層が感じるモノと同等なのだというコトを、ずーっと子供向けゲームばかりを作り続けてきた鶴見は知っている(いやもう、ホントにそうなんですよ)。

んで、パチンコ・パチスロは、30兆弱の市場規模を誇っているが、それは今回の事件を見ても判るように、「ヘヴィユーザーの依存」に依存してこそ、この金額なワケだ。しかしそれは、社会的な反発をも引き起こす。そんなんでは今の業容を維持できるハズがない。縮小の未来しか視えない。

ならば同様に。

ゲームによるオンライン・コミュニティ/サービスがもし、「いわゆる」オンラインゲーム…というか、「ヘヴィユーザーの依存」に依存するビジネスを選択するのであれば、そこに未来があろうハズはない。XBOX360やPS3の「オンライン」が、現在のオンラインゲームの延長上に作られ、そしてユーザーを囲い込もうとするのだとしたら、さぞかしつまらないモノになりそうな悪寒すらする。

唯一有り得るとしたら、ゲーム単体で完結させるのではなく、ゲームとWEBとで相互補完的にコミュニティを形成する、というやり方か。でもそれなら、わざわざコンソール上でやらなくても、2ちゃん(&まとめサイト)やmixiのコミュニティとYouTubeがあれば十分な気もする。(キーボードすら標準装備されていない)コンソールでコミュニティを形成するメリットって何なんだろ?


なんか、もっと面白そうなコトが出来そうな気はするんだけどねえ。でも、そう思い続けながら早10年(汗)。あーどうしようかねえ。

tsurumy at 16:27 | リンク | トラックバック (0)

2006年06月25日

又も綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト[後編]

「さて、休憩前にワタシが唱えた大胆発言、『ゲームと恋愛は似ている』説を解き明かす為に、ここで1冊、ある本を紹介させていただきたいと思います。それは『やる気を生む脳科学』という本です。著書の大木幸介さんという方は、脳生理学の分野では大御所と呼ばれる先生だそうで、なるほど確かにこの本『やる気を生む脳科学』も、深い知識に裏打ちされた、面白くて為になる話が満載です。『やる気』をコントロールする方法など、お子さんをお持ちの親御さんには役に立つ話も多いので、ワタシの話とは関係なく、ぜひお読みいただきたければと思います。実は、ゲームを作る側にとっても役立つ話が多いんですねコレ(笑)。講談社ブルーバックスというシリーズの新書ですから、ちょっとした本屋さんであれば、すぐ見つけるコトが出来るかと思います。

「『やる気を生む脳科学』によれば、人間の脳味噌には『デジタル・コンピュータ的な神経』と『アナログ・コンピュータ的な神経』が混在しているのだそうです。デジタルの方は電気信号を使って『判断・認識』などを受け持ち、一方でアナログの方は化学物質を使って、人間の精神活動を受け持っているんだとか。そして…このアナログ神経の中でも、特に重要な役目を担っているのが『A10神経』――別名『快感神経』と呼ばれるモノです。

「脳生理学的に云うと、『A10神経』=快感神経は、『意欲』や『性愛』『創造力』などの活動と密接に結び付いています。ここ重要なんで覚えておいてください…『意欲』『性愛』『創造力』ですよ。一口に云えば、気持ちいいコトはやる気が出るという、まあ当然のコトですね。でもそれだけじゃありません。今、『創造力』と云いましたが、気持ちのいい時に勉強や仕事なんかがサクサク進むのも、この結び付きのおかげです。脳味噌に快感を感じさせるコトは、脳の健康を保ち――ひいては生活を健康的に営む為にも、必須のコトなのではないかと考えます。

「そういう意味では、『脳を鍛える大人のなんちゃらトレーニング』も、認識力や判断力を鍛えるという以上に、脳に対して定期的に『快感』を与えて、脳味噌を健康に保つという意味合いも大きいのですね。なんとまあ、ゲームだって生活の『役に立つ』ワケですよ。『ゲーム脳』とか主張してるセンセイ、聞いていらっしゃいますか?(嘲笑) まあ厳密に云えば、TVゲームとA10神経が関わっていると証明されたワケではありませんが、ゲームによって快感が生まれるコトには間違いないので、その可能性は極めて高いと云って差し支えないと考えます。

「そして――ここで『恋愛』の話になるんですが、恋愛も、これと同じ脳のシステムによって成立していると考えられています。というより、そもそも恋愛の方が先にあって、TVゲームの方が同じシステムで成立している、といった方が正確ですか。…先ほど『意欲』『性愛』『創造力』と申しましたが、これらは脳内では『視床下部』という場所で連動しているんですね。…気持ちいいコトによって快感神経が活性化し、恋愛対象である相手に対する想い――まあ『性愛』ですね、それがどんどん湧いてくる――この湧いてくる、というのにはもちろん『創造力』が関わっているワケですけど、こうした脳の働きは、連動して起きやすい、それこそが恋愛だろう、というコトです。…なんだかこうして脳の機能としてお話ししちゃいますと、ロマンチックもへったくれもないんですが(笑)。

「ところが――ご存知のように、いいコトばかりじゃないんですね、これは。恋愛をしている時というのは、気分がバラ色なばかりではないコトは、皆さん身に覚えがあるかと思います(笑)。相手への想いが暴走して――本当に『暴走』という言葉がピッタリなほど、気持ちに収まりがつかなくなってしまうコトがありますよね? 相手のコトを想って、想いすぎて、他のコトが何にも手につかない状態。場合によっては、有りもしない浮気を疑って嫉妬に狂ったりもします。これらは、『創造力』が活性化され過ぎて、必要以上に色々なコトを発想してしまうコトによって起きるワケです。もちろん、『それ無しではいられない』というコトになってしまうので、社会生活との両立を阻害する、大きな要因です。

「これは何というか――『依存』ですね。脳味噌の視床下部が活性化したのはいいけれど、そこで生まれた『意欲』が、外部へ向かわずに、同じ対象にだけ向かって『閉じて』いる――他のコトへ向かわずに、それ無しではいられなくなる。それは正しく『依存』です。いやもう、『依存』はいけません、依存は。

「ここ数年、パチンコ依存が社会問題化していますが、あれなんかも同じ構造ですね。まあ同じ構造とは云っても、TVゲームの比ではないほど『依存』を引き起こしやすいのがギャンブルなんですが。例えばギャンブルには、『射幸心』という要素があります。当たるか当たらないか分からない…けれど当たるかもしれない…当たってほしい…そう期待する心のコトですね。ギャンブルは射幸心によって、TVゲームなんか全然比べモノにならないぐらいの強い依存を引き起こしています。

「『射幸心』と『依存』の関係を示す、こんな実験があります。先ほど触れました『オペラント学習』の実験なんですが――スイッチを押すと餌が出てくるような装置を使って、マウスに実験を行ったとお考えください。ただし、マウスを2グループに分けます。片方は『スイッチを押したら必ず餌が出る』装置を使い、もう片方は『スイッチを押したら、餌が出たり出なかったりする』装置を使いました。

「そして、両グループとも、マウスがスイッチを押すコトを学習した後に、今度は、スイッチを押しても餌が出ないように設定を変更したんですが…結果はどうなったと思いますか?――『スイッチを押したら必ず餌が出る』グループのマウスは、餌が出なくなったらスイッチを押すコトをすっぱり止めました。まあ当然ですね。ところが…『スイッチを押したら、餌が出たり出なかったりする』グループのマウスは、餌が出なくなっても、相変わらずスイッチを押してばかりいたんだそうです。きっと、『いつかは餌が出てくれるかもしれない』と期待しながら。

「恋愛も同じですね。スムーズに進む恋愛よりも、困難な恋愛、障害の多い恋愛、上手くいくかどうか分からないモノほど『燃える』ってヤツです。マウスも人間も、同じようなシステムによって『依存』へ陥ってしまうと云っていいでしょう。

「もちろん似た現象は、TVゲームによっても起こり得るワケです。実際ワタシも、とある有名なTVゲームにハマっていた時は、本当にもうそのゲームで頭が一杯でした。寝ても覚めても…目をつむっただけで、そのゲームの画面が目に浮かんだものです。仕事をしていても何をしていても、早く遊びたくてウズウズしていました。仕事も疎かになっていたかもしれません。――その頃の自分を分析すると…主に2つの要素から『依存』状態に陥っていたように思います。

「ひとつは、『長時間遊んでいたコト』。これは問答無用にそうですよね。短時間遊んでいただけでは、それに依存するはずもありません。ただし、その内容を詳しく思い出してみると、『1回に長時間、遊んでいたコト』これがマズかったのではないかと考えます。

「それはどういうコトかと云いますと…ゲームを一度に長時間遊んでいますと、これはもう、徐々に疲れてくるワケです。これは当然ですね。そして、自分では上手くやったつもりなのに、失敗したりする。成功したりもする。これが、ゲームの作り手が意図したモノならば、まあ我々は『過度にハマらないように』『飽きないように』作っているから良いんですけれど、疲れてもなお同じ場所を遊んでいて、『あともう少しで上手くいったのに!』なんてセリフを云っていたら――これはまるで、先ほどの『餌が出たり出なかったりする』マウスの実験と同じです。

「そしてもうひとつあります。『実生活とのリンクの仕方』がマズかったのです。先ほど、快感によって脳味噌の『創造力』が活性化されると申しましたが、じゃあそこで生まれた創造力がどこへ向かうのか…これがゲームの中だけで閉じていたらマズいコトになります。まあ、お子さんがお友達とTVゲームのコトについて喋り合うのは、他の話題も混ざるでしょうから、コミュニケーションの一環として特に問題はありません。しかし、誰とも喋らずにゲームのコトだけを考えていたら、これはあまりよろしくないでしょう。

「あと最近では、インターネットの掲示板などにも注意が必要です。インターネットの世界は玉石混交なので一概には云えませんが――詳しくは説明しませんが、次の言葉だけは覚えておいてください『ゲハ板』『信者』『ワロス』――こんなような言葉を日常生活で使い出したら、閉じこもった世界に依存し始める兆候です。ご注意ください。

「――さて、以上のコトから考えますと、お子さんがTVゲーム依存にならないようにする為には、お父さんお母さんにおかれましては、次のような態度が望ましいのではないかと考えます。

「まず、『長時間遊ばせない』。特に、同じ場所で長時間詰まっていたら、すぐに止めさせる、あるいは休息をとらせるコトは必須です。実はその方が、ゲームが上手くなるんですよ…と、ゲーム制作者が云っていたと、ぜひお子さんに伝えておいてください(笑)。また、もし云うコトを聞かないようであれば、強制的に電源コードを抜くのもアリです。最初はお子さんも文句を云うでしょうけれど、次第に『学習』して、ちゃんと途中経過を記録=セーブする術を覚えるコトは間違いありません。…あ、『記録しておきなさい』なんて云う必要はありませんよ。それを自分で気づかせる楽しみ…『ゲーム性』を奪っちゃいけませんからね(笑)。

「そして、『ゲーム体験を実生活とリンクさせる』これも重要です。具体的には、TVゲームを遊んだ後のお子さんに、ゲームの内容について話をさせるのがいいでしょう。今日はどこまで進んだのか、どこが難しくて、どこが楽しかったのか…ゲームを遊んだ後のお子さんは、先ほど申しましたように『創造力』が高まっているはずなので、いつも以上に親子の会話も弾むのではないかと思います。

「なんにせよ、TVゲームは恋愛と一緒で『反対するほど燃え上がる』類のモノですから、出来る限りオープンにするコトが望ましいのには間違いありません。特に…上の2つの方法を実行する為には、親御さんが、お子さんがTVゲームを遊んでいるところを、常に気にかけている必要があります。自分の部屋ではなく、お茶の間で遊ばせておき、家事の合間に気にかけて、声をかけたり質問したり…たまには一緒に遊んでみるのも良いでしょう。そうすれば、依存などにはなりようがありません。…えー…たまたま…ではありますが…ワタシの手がけているゲームは、お子さんだけでなく親御さんにも楽しめるモノが多いので…ぜひ購入候補にどうぞ(笑)。

「それでは、もう時間も無いようですので、最後に一言だけ云わせてください。――我々は、TVゲームという『娯楽』を作っています。しかし娯楽は、それが面白ければ面白いほど『毒』になる危険性も秘めています。ゲームを毒にしてしまわない為にも、親御さん方におかれましては、TVゲームについての理解を更に一層深めていただければと願う次第です。本日も、ご清聴ありがとうございました」

tsurumy at 11:45 | リンク | トラックバック (0)

2006年06月22日

又も綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト[中編]

「えー…皆さんお揃いでしょうか? ――それでは再開致しますが、最初に、休憩前にお話ししたコトを簡単におさらいしておきましょう。

「まず、TVゲームの気持ちよさの元は『脳の学習機能』である――これは、ちゃんと覚えておいて…というか、『学習』しておいていただけましたか?(笑) そして、脳の学習機能は、人間が人間である限り脳味噌に組み込まれているワケですから、TVゲームは年齢に関係なく面白いモノであり、裏を返せば『子供の脳だけを変質させるようなコトはない』、というコトもよろしいでしょうか。そこまでおさらいした上で、いよいよ『TVゲームは子供に悪影響を及ぼし得るのか?』というお話になります。

「さて、TVゲームというのは、云うまでもなく『娯楽』です。先ほどは『学習』と申しましたが、これは生活に役立つ学習とか、いわゆる勉強という意味ではなく、脳にとっての『学習反応』という意味にしか過ぎません。いくらゲームが上手くて…高い得点をあげたり、武器やモンスターを集めたりしても、ごく一部の例外を除いては、実生活では全く得になりませんね。なので、人間として生きていく為には、あくまでも社会生活が『主』で、娯楽は『従』となります。まあ娯楽とはそういうモノですよね。映画だってTVだって漫画だって小説だって、それには変わりがありません。

「では、もし…この社会生活と娯楽との『主従関係』が崩れてしまったら…逆転してしまったら、一体どうなってしまうでしょう? 娯楽に溺れた挙句、社会生活を営まなくなったら――これはもう、説明するまでもなく大問題になります。仕事もせずにTVばかり観ていたら、たちまち生活に困るコトになってしまいますし、部屋から一歩も出ないでインターネットに没頭していたら、それは『引きこもり』です。何にせよ、問題です。

「そもそも娯楽というモノの役目は、生活に活力を与えるコトにあるワケです。『社会生活との両立』が出来てはじめて、プラスの存在価値が生まれる…これはもう社会の常識中の常識だと云って良いと思います。逆に云えば、社会生活と両立出来ない娯楽は、『毒』と同じです。娯楽そのものが毒なのではありません。娯楽との『間違った付き合い方』が毒を生み出すのです。

「ここまで説明すれば、ワタシが『TVゲームは子供に悪影響を及ぼし得る』と云った意味が、お解りいただけたのではないかと思います。つまり、もしお子さんがゲームばかり遊んでいて――ゲームがお子さんの社会生活を過度に侵食してしまったとしたら、それは即ち『悪影響』と呼んでも差し支えないだろう、というコトです。我々ゲームの作り手も、お子さん達がそこまでゲームにのめり込むコトは、まったく望んでいません。

「しかし…『社会生活と両立する』これは大人にとっても案外と難しい。たまたま今、ワールドカップ・サッカーが開催されているワケですが、深夜までTV観戦していると、翌日の仕事がツラくてツラくてたまらない。まさに「毒」です。4年に1度、毒が身体に回ってしまうなんて、まるで流行り病みたいですね(笑)。とは云え、ワールドカップならまだマシです。だって、放送時間は決まっていますし、次のブラジル戦で負ければ終わりですし…いやいや、もちろん終わってほしくはないんですが(笑)、こればっかりは自分でどうこうするワケにはいきません。――ところがTVゲームは、ワールドカップ観戦とは違って…というか他の娯楽と違って、こうした『制限』とか『縛り』が極端に少ないんですね。

「まず基本的に、遊ぶ人間の意志で際限なく遊べてしまいます。この辺り、叱ってもなかなかゲームを止めないお子様をお持ちの方には、お解りいただけるでしょう(笑)。TVや映画などとは違って、終了時間が決まっているワケでもありませんし、漫画や小説などとも違って、大抵のゲームソフトでは、終わりになってもなお、何度でも繰り返し遊べる仕組みになっています。いや実は、これに関しては我々ゲームを作る側にも責任の一端がありまして――TVゲームは娯楽としてはお値段の高い商品なので、元を取っていただくためにも、なるべく長く遊ばせたい、飽きずに何度でも遊ばせたい…そう考えながらゲームを作っているワケなんです。まあ、短時間しか遊べずに、すぐに中古で売られてしまうと、その分の売上げが減ってしまって大変困る、というこちらの内部事情もあったりするんですが…まあそれは聞かなかったコトにしておいてください(笑)。

「そしてもうひとつ、こちらの方が遙かに重要なんですが…TVゲームの面白さは、脳にプログラムされた学習機能――云ってみれば『原始的』『原初的』な機能から生まれるので、面白さそのものが身体に…脳に『染みつきやすい』のです。『思い出しやすい』と云っても良いでしょう。

「例えば、同じように脳にプログラムされた機能に喩えてみれば解りやすいかもしれません。食欲・睡眠欲・性欲を三大欲望なんて云いますが、これらの本能はもちろん『脳にプログラムされたモノ』です。そして、この3つはどれも、気持ちよさを『思い出しやすい』。――ふかふかの布団にくるまって眠る気持ちよさなんて、どんな方でも間違いなく思い出せる『気持ちよさ』じゃありませんか。食欲・性欲については説明するまでもないでしょう。

「もちろん厳密に云えば、これらの『本能に基づく快感』と、TVゲームの『学習機能による快感』とでは、脳味噌の中での反応部分も、重み付けも、随分違うのですが、『気持ちよさを思い出しやすい』という点においては、程度の差こそあれ同じです。そして、気持ちよさを思い出しやすいから…やり続けたい…もう一度またやりたい…こう思いがちなのは、至極当然です。眠りたい…眠り続けたい…美味しい物を食べたい…お腹いっぱい食べたい…ヤリたい…もう一度またヤリたい――って、なんだか猥談になってしまいそうなんで、この辺にしときましょうか(笑)。なんにせよ、TVゲームの面白さは脳に染みつきやすいので、遊ぶ人間は、そのまま遊び続けていたいと強く思ってしまうワケです。


「――ここまでお聞きいただいて、なんだか『子供にTVゲームを止めさせる』コトが、相当困難な、一大事業のような(笑)印象を受けた方もいらっしゃるのじゃないでしょうか。殊に、ご自分ではゲームを遊ばれない方は、想像のしようがなくて、どうすれば良いのかまったく見当がつかないだろうとお察し致します。

「でも実は、『TVゲーム』にまつわる活動というのは、人間の『とある行動』に似ていたりするんですね。ゲームを遊ばれない方も含めて、皆さんが絶対にご存知のはずの『とある行動』に。――人間にプログラムされている現象で、快感を伴い、うまく社会生活と両立すれば薬…活力を与えてくれるけれども、溺れてしまうと毒にもなってしまう『行動』――それは『恋愛』なんです。しかも、プラトニックなモノではなく、身体の関係もアリの『大人の恋愛』ですね。最近では、高校生でも肉体関係のある恋愛が珍しくないそうですから、その辺りを想像していただければ良いでしょう。念の為云っておきますが、これは猥談なんかではありませんよ。

「恋愛についてだったら、ゲームをご存知でない方でも、皆さん間違いなく経験がおありじゃありませんか?(笑) 『TVゲームにハマる構図は、大人の恋愛と似ている』。これは大胆な発言のように聞こえてしまうかもしれませんが、実はそう喩えると、色々なコトが理解しやすくなるんですよ。――では、これから2度目の休憩に入りますので、その後で、この大胆発言を元に、親御さんがTVゲームにハマったお子さんに対してどのように対応すべきか、鶴見の考えをお話しするコトにしましょう」

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2006年06月20日

又も綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト[前編]

「本日もまた、お忙しい中をお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。前回は、子供が何故TVゲームにハマるのか、その理由を『TVゲームは褒める装置だ』というキーワードから説明しましたトコロ、各方面から――特に、ご自分でゲームを遊ばれる方からも、思わぬほどの大きな反響をいただきまして、正直びっくりしています。しかも、そのほとんどが、『あるあるあるあるある!』…ってちょっと古いですね(笑)、まあ『納得した』という反響だったので、安心した次第です。

「あの後で、何人もの親御さんから、ゲームについて色々とご相談いただきました。…ところがですね、その大半が同じ質問ばかりなんですよ。というより、大きく分けて2つだけしかありませんでした。ひとつは、『ゲームは子供に悪影響を及ぼすのではないのか?』というご質問、もうひとつは『子供にゲームをとめさせるには、どうすればよいか?』というご質問でした。…おやおや、本日おいでになっている方々の中にも、うなずいている方が沢山いらっしゃいますね(笑)。この2つはどうやら、世間の親御さんにとっては共通の悩みだとお見受けします。

「実はこの2つ、根っ子が同じトコロにあるんですが――今回はそれについてお話をするコトにしましょう。長くなるかと思いますので、何度か休憩をはさみつつ、たっぷりとお話しさせていただきますので、よろしくお願い致します。

「まず――これはゲームを生業にしている身としては爆弾発言かもしれないんですが――TVゲームが子供に悪影響を及ぼすのかどうかといったら…『悪影響を及ぼし得る』これは間違いないコトだと考えます。

「…お静かに、お静かに! 駄目ですよ、ここまでしか聞かないで、『ゲームは悪影響がある』なんて間違えて覚えて帰っちゃ(笑)。『ゲーム』イコール『悪影響』なのではなく、あくまでも、ゲームは悪影響を及ぼし『得る』なんですから。この『得る』の2文字が重要です。つまり、ゲームは毒になる『可能性がある』というコトなんです。…そしてもちろん、薬にもなる可能性だってあるんです。

「もっと正確に云いますと、『ゲームとは脳に影響を及ぼすモノである』と云って良いかと考えます。…と云いましても、それは悪い影響という意味ではありません。単なる『影響』です。脳に影響を及ぼす力を、『善悪関係なく』持っているというコトです。ここは強調させてください『善悪関係なく』ですよ。

「例えば…ちょっと考えてもみてください。今、大ブームを巻き起こしている『脳を鍛える大人のなんちゃらトレーニング』というゲームがありますよね? あれなんか、脳活動にとても良い影響を与えてくれそうじゃありませんか。あれだってゲームです。しかも『脳に影響を及ぼす』と、堂々と謳っているゲームです。ゲームが脳に及ぼす影響を『悪』と決め付けてしまったら、何かおかしいコトになりませんか?

「念のため申しておきますと、『子供の未発達な脳にだけ悪い影響を与える』なんてコトは、有り得ません。少なくとも、科学的に証明されてはいません。『脳を鍛える大人のなんちゃらトレーニング』だって、『大人の』とは謳っていますが、大人だけでなく、子供が遊んでも『脳を存分に使う楽しさ』を味わえるモノです。実際、ワタシはここ10年ずっと子供向けのゲームを作ってきて、目の前でゲームが遊ばれるのを観察したり、あるいは色々なご意見ご感想をいただいたりしているのですが…お子さんの反応と親御さんの反応というのは、これがもう、驚くほど似通っているんです。特に、普段ゲームをされない親御さんほど、お子さんと同じような反応を返されますね。『子供にだけ悪影響』なんて、ゲームを作っているワタシの実感としては、全く有り得ません。

「世間には『ゲーム脳』だのなんだのと、親御さんの心配をいたずらに煽るような本や意見もあるようですが、ああいったデタラメが堂々と罷り通ってしまうほど、科学的には未開拓なのが現状なんです。ただ、脳科学や発達心理学の分野で既に定説になっている研究を基に推測しますと、ゲームが脳に対する影響力を持っているのは当然だとしても、それを『悪い影響』と決め付けるのは間違いだと云って良いでしょう。

「そもそもTVゲームの面白さの本質、つまり『人間がゲームを面白く感じる』根本は、年齢には関係ないモノなんです。それは、人間なら誰でも持っている機能――脳味噌の『学習』機能そのものなんですね。

「前回、ゲームのコトを、プレイヤーの『判断』に対して褒めたり叱ったりする『褒める装置』という云い方をしましたが、これを専門用語で『オペラント学習』と云います。よく研究室などで、マウスを迷路に入れて、正しい出口にたどり着いたらご褒美に餌を与える、なんて実験をやったりしていますけれど、見たコトはありませんか? あれと同じなんです。

「そしてこの『学習』というヤツは、人間、というか脊椎動物の脳味噌に、最初からプログラムされている『機能快』――快感のひとつなんです。覚えて、使って、成功して、ご褒美を貰えると『気持ちいい』。もちろん褒められるコト自体も気持ちいいんですが、それ以前に、学習が『成功』するコトそのものが気持ちいいんですね、脊椎動物は。…というか『人間』は。人間は、この『学習』という素晴らしい脳味噌のプログラムのおかげで、進歩発展するコトが出来たのですし、もっと云えば、学習という能力のおかげで、人類は環境に適応し、進化し、地球上で万物の霊長たる今の地位を獲得したというワケです。

「…なんだか、人類とか進化とか大げさな話になっちゃいましたが(笑)。まあ、ゲームの気持ちよさの元が『脳味噌の学習』にあるというコトは覚えておいてください。TVゲームの『ゲーム性』は、人間が生まれながらに持っている、脳味噌の機能を使わせていただいている、というコトです。そして何度でも云いますが、これには、大人・子供は関係ありません。子供の脳だけを変質させてしまうなんてコトもありません。

「さて、ここでいよいよ話を戻して――ワタシが先ほど申し上げました爆弾発言『TVゲームは子供に悪影響を及ぼし得る』…悪影響を及ぼす『可能性がある』、これについて詳しく説明するコトにしたいのですが…その前に、ちょっと休憩を入れたいと思います。その後には、いよいよ本日の核心部分に進みたいと思いますので、それまで、おトイレおタバコお飲み物などで、脳味噌を十分リラックスさせておいてください。――ではしばらく休憩に致します」

tsurumy at 20:22 | リンク | トラックバック (0)

2006年06月18日

「レーティングABCのうた」のコト

というワケで、また歌を作っちまっただよわはは。

レーティングABCのうた
「レーティングABCのうた」(WMV, 2.75MB)

以前、「CEROに任せろ」(MP3, 848KB) というCMソングを、なんだか勢いに任せて作っちゃったりしたけれど、今度も例によって勢いだけで作っちまった。――まあ「作った」っていうか何というか、実は単なる替え歌で、元ネタは「バスト占いのうた」なんだけどね。

これで、新レーティング制度の認知が高まれば…って無理か(笑

【追記】

ボツにしたアイデア

見たかキミは(キミは)
レーティングZ
聞いたかキミは(キミは)
レーティングZ!
グロいんだ
エロいんだ
スゴいんだ
ヤバいんだ

(語り)
 だがキミは知っているか?
 報道番組の方が遙かにグロい事を
 だがキミは知っているか?
 バラエティの方が遙かにエロい事を
 キミは知っているか知っているのか
 映画にアニメに漫画に小説
 大人向け娯楽は多かれ少なかれ
 どれもエロくてグロい事に

レーティーングZ!

tsurumy at 21:59 | リンク | トラックバック (0)

2006年06月14日

残虐ゲーム問題ほぼ一周年のコト

ちょうど昨年の今頃――正確には5月30日に、神奈川県が「グラン・セフト・オート」を(いわゆる)残虐ゲームとして有害図書類に指定し、青少年への販売を禁じたのであった(→「頑張れCERO!」のコト)。

あれから1年。状況はどうなったのだろう。良くなったのか、それとも悪くなったのか。

もちろん大きく好転した…と思いたい。

レーティングに関する議論はこの1年で急速に進み、記念すべき有害図書類指定からほぼ一周年にあたる5月31日、18歳以上のみを対象とした「Z区分」を含む新レーティング制度がスタートした。これは、一部メディアで報じられている通りだ(一例としてITmediaを挙げておく)。

CERO新レーティング表示

鶴見は以前、「CEROさん! 『成人向け』レーティングをぜひ設定してください!」と書いたコトがあった(→ゲームも有害図書指定されちゃうコト)。書いたのは、神奈川県が一部のゲームを有害図書指定しようとする方針を明らかにした直後だったかな。なんとなれば、『成人向け』レーティングが設定されて周知のモノとなれば、それ以外のゲームが不当に「有害図書指定」されるコトはないだろう、と考えたからだ。

そして現実もまた、鶴見がかつて願ったように進みつつある。

ならばこれで一安心…なのだろうか?


今後も取り組んでいかなければならないことは存在する。1つはこのシステムが周知徹底されること

――和田洋一CESA会長は、「テレビゲームと子どもに関する協議会」の席上でこう云う。そうだその通りだ。規制しようとしている方々には当然知って貰わなければならないし、運用する流通の側にも知って貰わなければならない。

だがなんといっても、ゲームを購入する消費者にこそ知って識って理解して貰わなければならないのではないか。そう考えると、CERO/CESAの活動はやっぱり圧倒的決定的致命的なまでに「足りない」ように思えてしまう。

ユーザーに対しての啓発が。

まず、上に掲載したレーティング表示と、以前のレーティング表示とを比べてほしい。

以前のCEROレーティング表示

これ、どう考えても昔の「数字表示」の方が、判りやすいんじゃね?

いや、内部の事情とか議論については想像できるのだわさ。今回問題になっている「18歳以上のみ対象」というレーティングのみ、他の「推奨年齢」レーティングとは成り立ちも意味合いも異なっているワケだし、それを「Z区分」と、特殊なアイコンで特別扱いするのは「アリ」だ。

でも、「Z」という記号を導入する為に、他も同様に「A~D」と記号化しちゃうってのは…整合性は取れるのかも知らんが、分かりやすさを落としちゃイカンだろ。

あるいは、記号性を高めつつ、それ相応の「刷り込み」を行うのならばOKだ。もちろん、消費者に対して。何かを学習させる方法はゲーム業界の得意とするトコロなのではないか。ちゃんとした露出計画の下、適正な露出(新聞とか雑誌とかTVコマーシャルとか)を図れば、間違いなく出来る。逆に云えば、それ無しでレーティング表記のみを替えても、片手落ちというものだ。それでは、自治体などの「お上」に対する言い訳・アリバイに過ぎない。やっぱり――

ユーザーへのアピールが足りん!


とまあ、鶴見はそう思っちゃうワケだ。


何度でも書く。

CEROの事業内容として、ゲームソフトの年齢別レーティング制度普及啓発事業と謳われているんだから、もっともっと普及啓発を行わなければならんよなあ。新聞広告とか雑誌広告とか、「JAROって何じゃろ?」に倣って、「CEROにまかセロ!」なCMとか。ダメですかそうですか。(→「誤解されてるなあCERO…」のコト

以前、鶴見は「CEROに任せろ」というCMソングを、なんだか勢いで作っちゃったりしたのだが(→「CEROに任セロ!」なCMソングのコト)、今度はヒマを見つけて、「A・B・C・D…Z」をテーマにしたCMソングでも作ってやろうかと思っている。

それぐらいやらなきゃダメだよ。

業界の人間は、ビデオゲームの社会的地位は思いの外、低いというコトを肝に銘じて、それなり方策を採らにゃイカン、と思う。


《蛇足》

SCEJは、大傑作ゲーム「God of War」(SCEA)も、「the Getaway」(SCEE)も、自社では発売しなかった(前者はカプコン、後者はセガから発売)。プラットフォーム・ホルダーSCEIのファーストパーティとして、君子危うきに近寄らずな態度を取ったのであろうか。この腰の引けっぷりが、彼我の社会的地位の差を端的に示しているように思える。プラットフォーム・ホルダー自ら、社会に切り込んでいく態度が望まれる。つうか鶴見はぜひ望む。頼むよ。

tsurumy at 18:10 | リンク | トラックバック (0)

2006年04月01日

次回作のコト

「ギリギリ君」パッケージ

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2006年03月19日

これってガイシュツ?な萌えネタのコト

今日、とある漫画家さんや編集者さん達と飲んだ際に、自分の中で「どうせ既出だろ」とお蔵入りさせていた萌えネタを披露したら、あにはからんや、誰からも「既出」との指摘が無かった。 mixiの日記でも「これって既出?」と訊いている最中なんだけれど、念の為、こっちでも訊いておこう。

それは「少女国会議員」

杉村太蔵議員を、女のコ…というか、ドジっ娘に変換してみたと思いなせい。

比例代表制&超法規的措置のために、なんだか突然、国会議員になってしまったフツーのコ。突然TV的に有名になってしまった可愛いコ。国政のコトなんか何も分からないもんだから、フツーの女のコの感覚で放言を繰り返し、アンチ/シンパを巻き込んで世論大沸騰。

杉村だと腹立たしいが、これが可愛い女のコだったら共感出来よう。少なくとも「片山さつきたん(はぁと)」とか云うよりは健全な気がする。それともギャップがない分ダメなのか? 荒唐無稽さでお釣りが来そうな気もするが。彼氏が国会議員な少女漫画はあったような気はするけれど、少なくとも、今の世情がそういうフィクションを求めていると、鶴見は確信している。「クニミツの政」も面白かったし、ね。「票田のトラクター」みたいに虚実織り交ぜて書いたら、ホント面白いと思う。関係ないけど、「内閣総理大臣・織田信長」もう一度読みたいなあ。

このネタって、既出じゃないの? 誰か教えて。なきゃ、書くよ。

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2006年03月12日

「ゲーム性」を退化させる国家の策謀のコト

後学の為にパチンコ/パチスロの「ゲーム性」について熟考中の鶴見であるが、最近のパチ業界の状況を眺めていると、まあ何というか、考えさせられるコトが非常に多い。

「全国規模の相談機関が設立 パチンコ依存」(琉球新報)

「依存」は「魅力」の裏返し。ギャンブルは、射幸性こそが魅力であり、根本価値だ。「魅力」自体に善悪はなく、善悪の意味づけは環境によって生み出される。

日本では、パチンコ/パチスロは「ギャンブルではない」庶民の健全な娯楽だという。いくら諸外国のギャンブル産業と比肩しうる30兆円もの総売上を誇っていても、ギャンブルではないと強弁されている。ちなみに強弁しているのは、監督官庁にしてパチンコ業界の寄生虫とも揶揄される警察庁。

建前として「ギャンブルではない」のだからして、魅力の中心を為すはずの「射幸性」は、あたかも鬼子扱いだ。風適法の表現でも「客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業」とされている。何が「おそれ」だよ。「著しく射幸心をそそる」コトの無いように監督してはいるけど、客が勝手にハマっちゃうかもしれないよ…そういうコトにしておきたいらしい。建前がスケスケの、まったくもってフザケた表現だ。

実際、パチが原因の「家庭崩壊」「借金地獄」等が社会問題になる度に、「自主規制」なる建前の監督官庁の指導が入り、射幸心を過度に煽る仕様は削られていっている。結果、射幸性の高い機械は徐々に姿を消しつつある。パチスロは「5号機」という、マイルドな波の(大負け/大勝ちしない)規格に移行しつつある。

アホか。

魅力を増すべく=射幸心を煽るべく、せっかく進化してきた射幸性(ゲーム性)を、退化させようとするお上の規制。仮にビデオゲーム業界で、「ゲームを面白くしてはいけない」という指導が監督官庁から入ったらどうなるか? 「ドラクエは強盗を引き起こすから、もっとつまらなくしろ」「メインCPUは十年前の技術で作られた官製の物に限定する」「ステージ中のパワーアップには制限を設ける」「連射速度は秒間10発まで」「1UP禁止」、等々。ナンセンスにも程がある…が、それをやっているのがパチ業界なのだ。


問題が「射幸性」ではなく、パチにかかる金額が「レジャー」の範疇を越えているコトにあるのは明々白々だ。例えば、1日12時間で最大どれだけ負けるコトが出来るか試算してみよう。

  • パチンコ:1分100発(1玉4円) → 28万8千円

  • パチスロ:4.1秒3枚(1枚20円) → 63万2千円

まあこれは極端な計算で、実際には出玉のあるミニ当たりがちょこちょことはさまるので、パチンコの場合は3分/千円=1日24万円、パチスロの場合は30ゲーム/千円=1日35万円ぐらいになる。最大値とはいえ、これほどの大金を投じるコトの出来る「ギャンブル」なので、今のパチンコ屋で5~6万負ける人間などザラだ(鶴見も最大で1日8万負けたコトがある…汗)。ちなみに少々古いデータだが、2002年に日本遊技関連事業協会(日遊協)が行ったアンケートによれば、客の投資限度額の平均は3万4206円だという。豪勢な温泉旅行に行ってもお釣りが来る。パチンコ/パチスロをやらない人間からしてみれば、何故それほど費やすのか理解できないコトだろう。

何故なのか? それはもちろん、それ以上に取り戻せる可能性があるからだ。

パチスロでは「万枚」という大勝ちの基準となる言葉がある。メダルを1万枚出すコトを云い、等価交換なら実に20万円もの勝ちを意味する。しかもこれは、宝くじみたいな夢物語ではなく、ちょっと気の利いた店なら毎日のように起きている、手が届きそうな場所に見えているリアルな夢なのだ。なんだか、真面目に働くのがバカらしくなっちゃうような金額だ。


かくして、1日に20万円勝てる(可能性のある)賭博場には、真面目に働くのがバカらしいと考える若゛者が集うコトとなる。いわゆる「パチプー」というヤツだ。繁盛しているパチンコ店へ午前9時半あたりに行くといい。ラフな格好に、浜崎あゆみチックなサングラスをかけ、帽子を被っている若゛者達が列をなしているのを見るコトが出来るだろう。サングラスは、光の点滅を一日中見つめ続けても眼を痛めない為。帽子は、早朝起き抜けすぐに髪をまとめるヒマもなく、パチンコ屋に急いで来た為。そう、彼(彼女)らこそが、パチプーだ。

パチプーは、ここ10年で一気に増殖した。例えばここ10年の「レジャー白書」を眺めると、パチンコ関連の参加人口は3分の2になっているのに、総売上は1割も減っていない。即ち、1人当たりの投入額が増加しているというコトだ(まあ、2004→2005では若干減少したが)。また、パチ業界によるアンケートでも「ライトファンは減少/ヘビーファンは増加」と書かれている。全体的な傾向として、パチプーが増え、一般客が減ったというワケだ。身も蓋もない表現をすれば、パチンコ屋はパチプーの巣窟になってしまったのだ。


ところでパチというギャンブルは、微視的に見ればプレイヤー対ハウス(店)であり「客が店から幾ら分捕れるか」という勝負なのだが、巨視的に見れば実はプレイヤー対プレイヤーという要素を内包している。

これがカジノならば、ハウス側のコミッション(いわゆる寺銭)の割合はゲームの種類によって確率的に決まっている。例えばルーレットならば、どのテーブルで賭けようとも変わらず、5.3%の期待値で店が儲かるようなルールとなっている(プレイヤーが1000ドル賭けた際の配当の期待値が947ドル)。もちろん、これは確率における期待値の話だから、運次第で客が大勝ちするコトは当然ある。だが、長期的に見れば「大数の法則」により、店は儲けを出すコトが出来るのだ。そしてプレイヤー側からすれば、相手は店…というより「確率」そのものなので、他の客がプロだろうがイカサマゴト師だろうが関係なく、素人でもカジノを相手に運試しを楽しめる。

ところがパチにおいては、店は釘調整(パチンコ)や設定(パチスロ)によって、出る台(出やすい台)と出ない台(出にくい台)とを配し、総体として、売上げに対して客にどれだけ還元するか(「割数」という)をある程度コントロールしている。つまり、店が総売上金額からコミッション(利益・設備費・サービス費)を戴き、残りを客同士で奪い合っていると云ってよい。

そう、一口に云えば、パチプーが勝てば勝つほどライトファンが割を食って負ける構造なのだ。

出やすい台をパチプーが朝から晩まで占拠してしまえば、ライトファンが勝てる道理はない。ライトファンの足はいよいよ遠のき、パチンコ屋の経営はヘビーファンに依存してゆかざるを得ない。そんな業界には、今のままでは未来はない。


じゃあどうすればよいのか。

そんなコト、門外漢の鶴見にだって分かる。パチにかかる金額を「レジャー」の範疇に収めればよいのだ。貸し玉/貸しメダル料金を10分の1程度にすれば、よっぽどツカンポな人間が1日負けたとしても2万円。実際にはそれより少額でお腹いっぱい「遊ぶ」コトが出来るだろう。それでこそ、庶民の娯楽に相応しい。

あるいは4分の1程度でもいい。「それじゃあ食えない」パチプーを駆除するコトが目的だ。パチプーさえいなければ、相対的にライトファンを呼び込むコトも出来るだろう。その為には、換金出来ない(特殊景品ナシ)の店ってのでも良いかもしれない…つうか、昔のパチンコ屋って、そんな感じじゃなかったっけ?

もちろんこれは、パチンコ業界の規模縮小を意味するので、云うのは易く行うは難い。殊に、30兆円にブラ下がっておこぼれにありついている「寄生虫」が、そんな構造改革を許すとは思えない。官僚が、省利省益を減らすコトに対して最大限の抵抗を示すのは周知の通りであり、例え、多くの人生を破壊した上での「30兆円」であったとしても、そうした本質には知らぬ顔の半兵衛をきめこんで、「射幸性こそ元凶」とばかりに、ゲーム性を規制し続けるコトだろう。

4分の1でも「7兆円産業」、十分大きい規模なのにね。ライトファンが増えれば、将来にわたって「食える」コトになるのにね。それで社会現象を回避出来てイメージアップが図れるのなら、万々歳だと思うんだけどね。パチプーを駆除して労働力に転換出来れば、国力も上がるのにね。

ああ、人民は弱く、官吏は強し。あとPSE法は絶対反対。

tsurumy at 23:29 | リンク | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年02月21日

セガから「クラッシュ・バンディクー」は出ないかも?なコト

クラッシュ&パラッパ

パチスロ「クラッシュ・バンディクー」のシミュレータがセガから発売されるかも!?と思って気にかけていたのだが、一向に発表される気配がない。その上、後からリリースされるパチスロ「俺の空」のシミュレータが、3月に発売になると発表されてしまった。

推測だが、権利元のユニバーサルとの契約上、クラッシュのパチスロ・シミュレータは出せないというコトなのだろう。まったくザンネンだ。


前回のエントリーでもチラッと書いたが、「クラッシュ・バンディクー」というタイトルは、マーク・サーニーがユニバーサル・インタラクティヴ・スタジオ(当時)に在籍していた時に、制作会社ノーティ・ドッグを見出して、制作をスタートさせたモノだ。

当時のコトを思い出すと感慨深い。ロス・アンゼルスはユニバーサル・スタジオの麓に位置する、旧テキサコ・ビルの一角で細々と開発していたあの頃。しばらくしてから、インソムニアックの面々が隣りの部屋で、「ピート」という名のアクションゲームを作り始めたんだったっけ。それは後に、「スパイロ・ザ・ドラゴン」となるんだけど、それはまだまだ先の話。

マーク以外のユニバーサルの人間は、ゲームソフトのプロジェクトにはそれほど力を入れていなかったように見えた。立ち上げこそユニバーサルの予算で行われたが、後の制作費は全てSCE持ちだったし、巨額のマーケティング予算もSCE。おまけに、それらに関わるクリエイティヴも全部が全部、ノーティ・ドッグとマーク、そしてSCEのメンバーでやっていた。クラッシュ・バンディクーとユニバーサルの関わりは、単にマークがユニバーサルに所属しているというその1点だけだった。


クラッシュは世界的な大ヒットなり、続編を重ねた。

そこから徐々に、皆んなが息苦しさを感じ始めたように思う。クラッシュの売上げが、ユニバーサルの事業計画の一角を、無視できない大きさで占め始めたために、「美味しい話」だと認識されるようになったのだろう。マーク以外のユニバーサルの担当者が、金も知恵も出さない割に口を出し始めた。そのくせ、担当者は引き継ぎもせずにコロコロと辞めやがる。責任も一貫性もあったもんじゃない。

一時期は、SCEがクラッシュ・バンディクーの版権をユニバーサルから買い取るという話も進んでいたと思う。だが、ユニバーサルがとんでもない巨額を提示してきた為に、ご破算になったはずだ。上述のように、ユニバーサルは金銭面でも創造面でもほとんど貢献していなかったけれど、さすがに金の卵を産むニワトリを簡単に手放しはしない。

そして、ノーティ・ドッグとマーク、SCEは決断した。ユニバーサルから離れよう、と。

「クラッシュ・バンディクー・レーシング(Crash Team Racing)」を最後に、ノーティ・ドッグはクラッシュから手を引いた。マークはユニバーサルを辞めてサーニーゲームズを設立し、「クラッシュ・バンディクー・カーニバル(Crash Bash)」をEUROCOMに作らせたのを最後にクラッシュから手を引いた。ユニバーサルを除いた、まったく同じメンバーで、新しいゲームを創り始めるコトにしたのだ。

ユニバーサルには…コアメンバーも居なければ、ゲームを作るノウハウも無く、ましてやクラッシュ・バンディクーが何故ヒットしたのか――クラッシュをクラッシュたらしめている要素についての正確な認識は無かったのではないかと思う。ただ、クラッシュ・バンディクーの成功は世界中の制作者の間では有名だったから、クラッシュの続編を作りたがる制作会社を見つけるのは容易かったはずだ。かろうじてクラッシュの名を冠した製品は出来上がってきた。それがクラッシュ4だ。

日本では、コナミがユニバーサルと業務提携して、クラッシュ4をリリースするコトになった(きっと、ブルース・リーやらユニバーサル・モンスターズやら、いくつかのゲームと抱き合わせで扱うコトになったのだろう)。版権は全てユニバーサルのモノなので、SCEで大枚はたいて制作した着ぐるみやら画像データやら一切合切は全て、ユニバーサル経由でコナミに譲り渡した…鶴見がディレクションした図版が(色調整をミスった部分も含めて)未だに使われているのを見て、なんとも微笑ましい気持ちになってしまうコトもあったし…幾度ものユーザーテストを経て日本市場の為に変えた部分が、全く有効に活用されていない例を見つけて、気落ちしたりもした。

鶴見が日本市場向けに創り出したモノ一式は全部渡したのだが、その底に流れる日本向けのコア・コンセプトを渡すコトは出来たかどうか。鶴見は、海外ソフトを日本市場において成功させるには、日本からのクリエイティヴ提案が必要不可欠だとの持論を持っているのだが(その必要性は、クラッシュで証明されているのだが)、そうした提案が為された形跡は無い。あるいは、米ユニバーサルの「なにやらの壁」を突破するコトが出来なかったのだろう。

結果、クラッシュ・バンディクーのフランチャイズは、日本ではすっかり盛り下がってしまった。


SCEがクラッシュから手を引いた直後には、「コナミに身売りした」だの「コナミが金にモノを云わせて買い取った」だの、様々な流言が飛び交ったが、真実は斯くの如し。パチスロのクラッシュを見て、ふと思い出したので記してみた。今やクラッシュは余所の子だし、余所の子が没落しようが苦界に身を落とそうが、アッシには関わりの無いコトでござんすではあるのだけれど、何か釈然としない気持ちが、今も残る鶴見ではある。

暑かったよね、あの夏。

tsurumy at 01:40 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年02月06日

セガから「クラッシュ・バンディクー」が出るかも?なコト

クラッシュ&ココ・バンディクー

「クラッシュ・バンディクー」とは云うまでもなく、マーク・サーニーがユニバーサル・インタラクティヴ・スタジオ副社長だった頃に、Naughty Dogとともに生み出したあの「オレンジ色のニクい奴」のコトだ。鶴見は日本での育ての親としてそれなりに奮闘し、今の仕事の基礎を固めるコトが出来た、まあ恩人のようなキャラクターだ。

そんなクラッシュ・バンディクーがパチスロになったという。発売元はサミー。今週からホールに順次導入だと聞く。

――ちょっと待った。とすると、「北斗の拳」や「アラジン2エボリューション」と同様に、「実戦パチスロ必勝法!」シリーズとして、PS2/PSP/NDS版がセガから発売になる公算が高いってコトか? ううむ、何とも不思議な巡り合わせであるなあ。

奴の数奇な運命については、世間で色々と誤解されているようなので、後でざっと記しておくコトにしよう(とりあえず今日は早く寝て、明日のスーパーボウルに備えねば! 頑張れピッツバーグ!)。

tsurumy at 00:34 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年02月01日

嘘六百一周年のコト

59 :嘘つき名無しさん:05/02/02 06:00:00 ID:0600design
俺のブログは歴史が長いぜ

60 :嘘つき名無しさん:05/02/02 06:00:02 ID:EntryNo211
>59
どれだけ続けてるってんだよ?

61 :嘘つき名無しさん:05/02/02 06:01:25 ID:0600design
>601年も続けてるぜ

62 :嘘つき名無しさん:05/02/02 06:01:53 ID:Accs213401
>61 テラナガスwww


というワケで、嘘六百一周年。2005年の2月1日に開設した当ブログ「嘘六百」も、おかげさまで一周年を迎えるコトが出来た。2年目も、本業では声高に叫べないコトどもを、アナーキーにアドリブで書き連ねていくので、皆様ひとつよろしうに。

tsurumy at 00:00 | リンク | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年01月31日

制作者が流通に逆らうのは得策でないという大人的判断のコト

いまだ傷癒えぬアパシー気味な鶴見ではあるが、一晩に8千人以上もの人間が忍之閻魔帳から雪崩れ込んで来ているとあっては、何らかの意見を表明せねば礼を失するというモノだろう。とは云え、鶴見も不毛な遣り取りをのんべんだらりんと続けるのは好まないので、忍氏に倣い、このエントリーを最後にするコトを宣言しつつ、ちゃちゃっと手短に書くコトにしよう(気力も無いし)。

まず、鶴見は忍氏が『バイトヘル』を未プレイだとみていたが、それは誤りだったらしい。忍氏は十二分に遊んだ上で、「中身はともかく、こりゃ売れないだろ。ホラ売れなかっただろ」(鶴見意訳)と書かれていたワケだ。その意味では、鶴見が「(忍氏は流通関係者として)本道に悖る」と非難したのは、言いがかりだと思われても仕方あるまい。素直にお詫びする。

実際、忍氏の最新のエントリーと共に読み返してみると構図が良く解るのだが、鶴見は忍氏を目利きの流通関係者と認定した上で「目利きだったら『バイトヘル』をマンセーしてもっと売りやがれ!」と強制しているに等しい。その振る舞いは、まさに「信者」のそれだ。ああ、先日の「萌え」に引き続き、この歳になって「信者」属性まで開拓してしまうとは…。もちろん、ゲハ板@2ちゃんねるを眺めても分かるように、信者の声が一般に届くコトは無い。虚空に吸い込まれるだけ、だ。

なんかね、鶴見は勝手に思いこんでたワケだ。「白い犬のワルツ」あたりで、書店員のオススメPOPがムーブメントを起こしたように(アレはHMVとかタワーレコードが元祖なのかな?)、目利きの現場の方に、手に取った時の面白さを伝えてもらえるんじゃないか、と。

でも実際は、自ら『バイトヘル』を購入(そして不満点はあれど中身は丁寧に作られているという評価まで)している忍氏をして、

私は、「埋もれさせるには惜しい」と感じたソフトは極力紹介するようにしている。(中略)「バイトヘル2000」は、ハナから売れることを投げているように思えたので紹介しなかった。

と、諦めモードに入らせてしまっている。やっぱり、メーカー/パブリッシャーは、流通関係の方に「強力な武器(商材)を渡している」ように確信させねばならんのだなあ、と、改めて気付かされた次第(もちろん、我々制作に関わる人間は、PR/マーケティングの人間に対して同様に「強力な武器(ゲーム素材)を渡している」ように思わせねばならない――というのは実は、この業界で尊敬する上司2人のうちの1人が云った言葉)。


最後に一つだけ蛇足。

鶴見氏は「バイトヘル2000」のプロデューサーとも懇意にしておられるようだが、私のような者に噛み付いたところで、後に残るのは、身内擁護という「カッコ悪さ」だけだと思うのだが。

鶴見は何にでも噛みつく反面、何でも擁護する人種なので、身内擁護というのはチト的外れだ。まあ、そう見える、というコトなんだろうけど、ここだけは反論しておく。惚れ込めばX360だって擁護しちゃう鶴見だ(惚れ込んでないからしないけど)。ましてや、約束を忘れてたドロボウヒゲのプロデューサーを擁護するなんて、頼まれたってしたくない(笑)。あくまで『バイトヘル』が好き、それだけだ。

ついでに云えば、カッコ悪さだって気にしない。気にしてたら、こんな人は生まれてない(笑)。



【追記】
元のタイトルは『「世にクソゲーは無く、唯マイナーゲームが在るのみ」というコト』だったが、そのタイトルで別エントリーを書く為に、こちらを改題した。

tsurumy at 06:19 | リンク | コメント (63) | トラックバック (0)

2006年01月17日

バイトヘルの悲劇のコト

何度か書いているが、鶴見は『バイトヘル2000』に感銘を受けた(ハマってもいる)。ゲームの制作を生業にしている身だからして、ゲームをみる目は人並み以上に肥えていると思う。そんな鶴見が、久々に自信を持って薦められる良ゲームだ。実際、インターネット上での評判を漁っても、悪評はとんと聞こえてこない。むしろ絶賛に近い感想やら、中毒の報告やらが大勢を占めている。

だが売れていない。


いや別に、直接の関係者ではない鶴見にしてみれば、バイトヘルが売れようが売れまいが、全くどうでもいいんだけど。…でも、自分が高く評価しているゲームが売れないというのは、いくら「良いゲームが必ずしも売れるワケではない」という事実を身をもって知っている鶴見にしても、なんとも寂しいコトではある。

良ゲームなのに売れないというのは、マーケティング施策的に何らかの失敗があったというコトに違いあるまい。例えば、有名サイト「忍之閻魔帳」では、発売直後に

CMも投下中の「バイトヘル2000」は予想通り惨敗。
自ら「ハイセンス」を名乗るバカゲーなどバカゲーではない。

と書かれている。筆者の忍氏は流通関係者だと思われるのだが、流通関係者が惨敗を「予想通り」と診ているというコトはつまり、メーカー側が流通側に対して、ゲームのポテンシャルを伝えきれなかったというコトに他ならない。そりゃ確かに売れないわな。ゲームを売るには、(指名買いされるような大御所ならともかく)メーカー・パブリッシャーがいくらCMを打ったとしてもそれだけでは片手落ちで、販売店の協力が不可欠なのだから。マスコミ(CM)+口コミ(販売店や友人の評判)が揃ってはじめて、無名のゲームは売れるのだから。

ところで、『バイトヘル』の面白さ(の本質)と流通関係者の見方には、いったいどれ程の隔たりがあるのだろうか? 「忍之閻魔帳」をもう少し見てみよう。なんとご丁寧にも、忍氏は鶴見が投げかけた疑問に答えてくれているのであった(ありがとうございます)。

私は確かに
「ハイセンスを名乗るバカゲーなどバカゲーではない」とは書いたが、
「バイトヘル」の中身については何も書いていない。
「ハイセンス」という言葉を自らのソフトに冠してしまうセンスを
「カッコ悪い」と言っているだけなのだ。
「グルーヴ地獄V」では堂々と「クソゲー」を名乗っていたのに、
えらく小さくまとまってしまったな、という嘆きでもあったりする。
「天然であることを自覚した天然」のようなものだ。
例え本当にハイセンスに仕上がっていたとしても、
「さらにクソゲーを極めました」と言って出して欲しかったと、
そういうことなのだな。伝わらんか。ううむ。

なるほど納得がいった。忍氏は、『バイトヘル』を『グルーヴ地獄V』のサブセット版(に成り下がってしまったモノ)として捉えているのか。それならば、『バイトヘル』は確かに、カルト性を薄めて一般にすり寄った(オモネった)中途半端な製品のように見えるだろう。これは忍氏に限らず、世間的にもそう思われているのかもしれない。実は鶴見も、実際に遊ぶまではそう思っていた。だが、

全然違う。


強調しておきたいのは、『バイトヘル』はクソゲーではないというコトだ。確かに『グルーヴ地獄』におけるミニゲームは「開き直ったクソゲー」ばかりであったが、『バイトヘル』におけるミニゲームは、相当手を掛けて磨き込まれているモノばかりだ。両者は同じセンスでまとめられてはいるが、総体としては全く異なったコンセプトの作品としてみるのが正しいと思う。これを、『グルーヴ地獄』の続編というだけで「クソゲー」と謳ってしまったら、嘘になる(まあ、戦略的に「クソゲー」を名乗るのはアリだが)。

『バイトヘル』はむしろ――鶴見は「ゲーム性カタログ」と呼んでいるが、ゲームの歴史を彩った名作ゲームのパロディ…の形を借りたオマージュだと云える。製品としての立ち位置は、ゲームボーイ・ミクロ+スーパーマリオブラザーズに近いだろうか。「ああ、俺ってファミコンにハマってた頃、こんな具合に熱中してたんだよなあ」というプレイ感覚だ。当時のゲームよりは遙かに親切なのだが、今のゲームに比べれば不親切…という絶妙なさじ加減も、当時のプレイ感覚を彷彿させる為の仕掛けのひとつであり、熱中する上では全く苦にならない。端的に云って「面白い」

以上の見方は、鶴見が実際に遊んでみて初めて解ったコトだ。でも、これを遊ばずに理解するのはほぼ不可能だろう。やはり、SCEのマーケティング施策が、間違っているというワケではないけれど、致命的に「足りない」と云っていいと思う。今のやり方じゃ、CMを大量投下してもユーザーに伝わるワケがない。

とはいえ。

忍氏が、(たぶん遊んでいないであろう)『バイトヘル』を印象だけで批判するコトの是非は、また別の話だ。本来的に云って、流通業者は商材(ソフトね)で利益を上げるコトが目的なのだから、誰よりも「目利き」であるべきだし、商材の価値を顧客に正しく伝えるべきであるのは論をまたない(その為に、流通関係者に対しては発売2ヶ月前に「新作ソフト商談会」という試遊の機会が設けられている)。なので、埋もれた(でもポテンシャルのある)ソフトを使って利益を出すのならば話は解るが、埋もれそうなソフトを遊びもせずにスルーした挙げ句「ほら惨敗した」では、本道に悖るように思える。ましてや、それを影響力の強いブログで書いても、誰も得をしないのではないか。これは、いくらSCEの施策に瑕疵があったとしても免責されるものではない。

(ちなみに、忍氏が『バイトヘル』を遊んでいないと推測した根拠はしごく単純で、「忍氏ほどの目利きなら、少し遊べば『バイトヘル』の面白さに気付くに違いない」と思っているからだ。氏の映画評はまさに「目利き」のそれだと思う)


ところで。

鶴見はこのエントリーを書きながら、『バイトヘル』のCMが如何にあるべきかを妄想してみた。例えば、鶴見が同じポジションだと考えている「ゲームボーイ・ミクロ」のCMは、ファミコン世代に向けて、オピニオン・リーダー的なタレント(宮藤官九郎やら木村カエラやら)を起用していたワケだが、同様の手法はどうだろう? ファミコン世代に向けて、ゲームの楽しさを想起させるタレントの起用は、かなり効きそうだが。あるいは、『バイトヘル』の出来自体は、大ヒット作『脳を鍛えるDSトレーニング』と比肩し得るモノなのだけれど、『脳を鍛える~』はタイトル通り「脳を鍛える」という判りやすい利益があるのに対して、『バイトヘル』は純粋娯楽なので分が悪い。そこで「純粋娯楽」の価値を訴求するようなタレントの起用なんてのも、いいかもしれない。そこで――

  • 案その1「高橋名人編」
  • 案その2「HORIオレコマンダーコラボ編(高橋名人に挑戦!)」
  • 案その3「三谷幸喜・娯楽について語る編(※バイトヘルには一切触れない)」

まず無理だろうけど、実現したら面白いし効果的だと思うんだが。つうか、もし今から売れちゃったりしたら、ゲーム業界のレジェンドとして後世に語り継がれるるだろうし…それって、なんだか『バイトヘル』に相応しいと思うんだが。おまけに、「面白いゲームを作りさえすれば結果はついてくる」と、制作者を勇気づける結果になるとも思うんだが。無理かねえ。無理だろうな(まあ、それはそれで『バイトヘル』らしいワケなんだが)。だが、だがしかし。

tsurumy at 05:26 | リンク | コメント (23) | トラックバック (0)

2005年12月22日

マイケル・ジャクソンズ・●●●ロボのコト

トートツに思い出したんで、忘れない内に書き留めておく、ちょっとした昔話…。

16年前、鶴見は『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』というゲームの開発に携わっていた。企画こそマイケル本人だったとはいえ、細かいゲーム的設定は我々日本のスタッフに任されていたので、鶴見も無いアタマを絞って考えたモノだ。もちろん、全ての面においてマイケルの承認が必要だったコトは云うまでもない。

ゲームのイメージは、マイケルの原案・総指揮によって製作された映画「ムーンウォーカー」をベースにし、敵キャラは20世紀初頭のギャング&特殊部隊、敵メカもレトロ-フューチャリスティックなイメージで統一した。その方が、マイケルのモダンさが際だつという計算だ。

んでもって、「何かミニボス的なメカが欲しいよね」という話になったので、映画には出てこないメカを創作したのだが、それが今回の本題…


正式名称「チンコロボ」(ズコズコ有り)。


チンコロボ…というか敵キャラ全てを描いたのは、美術教師からゲーム絵描きに転身した牧野卓さんという先輩で、ゲーム業界処女作が業務用『テトリス』の、続いて業務用『ESWAT』のゴリラを描いた方なのだが(もちろんバブルス君も描いた)、いやいやこんな超絶アーティスト見たコトない。絵も上手ければ手も速く、部下に指導しつつも、本人は残業もせずに倍の作業を淡々とこなす。手が空くと、廃材を使ってゲーム内に出てくるような可動メカを実際に作ってしまったり、ESWATのパワードスーツをリアル・フィギュア化したりもする。おまけに家では巨大な絵画を描く。――日本海外を含めて、鶴見が過去出会ったアーティストの中では、文句なくトップクラスの一人だ。

(今調べたら、牧野さんのサイトを発見。すげえ!→マキノ模型


さてさてムーンウォーカーの開発も佳境を迎えていたある日、鶴見を含むプロジェクトメンバーは牧野さんに呼び出され、デジタイザ(グラフィックツール)の前にやって来た。何だろう?といぶかる鶴見に向かって、牧野さんはフロッピーから何かの絵を読み込みながら、こう云ったのであった。

「チンコロボだけどさ、マイケルの承認が降りなかったら困るから、別バージョンを描いてみたヨ」

確かに、社内では大好評なチンコロボですけど、客観的に見ればヤバいですもんねー。エレベーター内にチンコロボと共に閉じこめられるシーンとか、見ようによっては倫理的問題ありまくりですもんねー。マイケルが文句云ってきたら困りますもんねー。…でも、今から大幅に変更するワケにいきませんよね? どうやったんですか?

「先っちょだけ動くようにしてみたヨ」












…先割れチンコロボ!?


そこで見たのは、チンコの先がパカっと割れてグワシグワシと動く、色々な意味で危険度を増したメカのアニメーションであった…。













…問題を回避するはずが、実は問題倍増!?












いやもう、経験値の低い鶴見は、チンコを割るべきか割らざるべきかの判断がつかず、すっかり頭を抱えてしまったのであったよ。初参加作で、大ピンチ!


――んでどうなったのかって?

いや結局は、マイケルが元のチンコロボを承認してくれたので、先割れチンコはお蔵入りになってしまったという次第。なので先割れ画像はナシ(残念!)。

マイケルがチンコロボをチンコと認めなかったのか、それとも、2分の1サイズの「ミニチンコロボ」を登場させて、可愛らしさを演出したのが良かったのか。真相は闇の中。再びマイケルに会う機会があったら訊いてみたいものだ。たぶんそんな機会ないだろうけど。絶対覚えてないだろうけど(笑


なんでこんな話を書いたのかというと、鶴見がセガを辞めてから牧野さんと再会した際に、「最近、萌え系おねーちゃんの絵を勉強してるんだけど、難しいネ」と聞いたコトがあったのを思い出したからだ。「萌え」という表現だったかはあやふやだけど、確かそういう話だったと思う。

牧野さんだったら、やっぱり超絶萌えれるおねーちゃんを描いちゃうんだろうなあ。つうか、もう描いてどこかで公開されてるんだろうなあ。うわー見てえ。誰かチクってくれないか>セガ関係者


(以上、申し訳程度に「© SEGA 1990」と添えつつ、この項、了)

tsurumy at 20:49 | リンク | コメント (5) | トラックバック (0)

2005年12月19日

[18禁] 誰でも出来る!**絵を描く方法のコト

というワケで、3週間にもわたる長き修練の時を経て、絵心の無い鶴見のような人間でも、カンタンにソレっぽく扇情的に絵を描く方法を会得してしまった。今回ココに、その研究結果を公開させていただこう。ただし18禁だ。

(1)元ネタ探し

まず最初に、扇情的な元ネタを探そう。出来れば裸体が望ましいけれど、ポーズがエロくて布地の面積が小さければ何でもOK。昔は高価な(割にはちっともエロくない)「ポーズファイル」とか「ヌード・ポーズ・コレクション」なんぞを利用するのが一般的だったが、なあに今やインターネットで検索すればいくらでも手に入る。んでもって、アイドルとかAVとかだと肖像権やなんやかやの心配があるけれど(アイドルの裸体写真なんてあるのか?)、風俗店のサイトだったら、パクリがバレても訴えられる可能性が極度に低いので(笑)オススメ。特に外人系ね。「首都圏 デリヘル」とか「韓国 出張」とかでググれば山のようにサンプリング出来る。

最近の風俗店サイトって、女のコの写真が修正バキバキすごいらしいヨ。んでもって、謳い文句が「振り替え無しで、写真の娘が必ず来ます」だってさ。いやそれ、バキバキに修正してる時点で別人ですから(笑)。

ナイスなエロ写真が見つかったら、とりあえず切り出してから、拡大して(解像度を上げて)おこう。


(2)ボディラインのトレース

さてさて、最近のリサーチによれば裸体よりも服を着せた方が扇情的だとのコトなので、ここからは服を着せる作業を行う。でも、服をソレっぽく着せるのって難易度高いよね。なので最初に、服を着せやすいようにボディラインを大雑把にトレースしておく(腕は無視)。

鶴見はPhotoShopを使い慣れているので、新規レイヤーを起こして、そこにボディラインを描いている。ここで重要なのは、「上半身」「下腹部」「脚」が別パーツとして組み合わさっているようにラインを引くコト。外側の輪郭さえ取れていれば、内側はテキトーでもOK。つうか、クビレからヒップのラインさえソレと認識出来れば成功したも同然だ(たぶん)。


(3)服の部分を塗る

いよいよ服を着せるワケだけど、まずは陰影とかシワとかは気にせずにベタで塗る。ただし、左右の位置が均等になるようにするコト。この図で具体的に云うと、上衣の上端は左右とも脇の下だし、下端はクビレの最細部だ。胴体を輪切りにするようなイメージでラインを描くワケだ。他は、先ほど描いたボディラインに沿って塗れば良し。

ほらほら、なんだかソレっぽくなってきたでしょ?


(4)陰影/ハイライトを入れる

お次は服に陰影を入れてみよう。なあにやるコトはカンタン。元写真で暗くなっている部分に、「エイヤッ」と気合いを込めて、ベタベタと濃い色を載せるだけだ。そして明るい部分には白を載せる。それだけでアラ不思議、身体が立体っぽく見えてくるのだ。元の写真とカンペキに同じじゃなくてもOK。フィーリングで入れてもソレっぽくなってくる。そりゃあ、見る人が見れば「光源が」とか云われちゃうんだろうけど、大丈夫、99%の方々はそんなツッコミしないから(笑)。

太いブラシでエイヤッと塗った後に、はみ出した部分は削っておこう。お絵描きツールにマスク機能があれば、あらかじめ描画範囲を身体だけに限定しておけば、もっとラクチンだ。

ここで、超巨大なボカシブラシやエアブラシなどで綺麗にグラデーションが出るように塗ったり、あるいはパーツ毎にマスクを切って塗ったりすれば、品質感も格段にアップするんだけど、そこは各人のお好みで。


(5)胴体を終え、腕に

ここで胴体は終了させて、お次は腕に移るトコロなんだけど、なんとなく思いついて、服をフリルらしきモノで縁取りしてみた。白いブラシでモヤモヤ描いて、その境界線に線を引いただけ。

んでもって、腕についてもやるコトは(2)~(4)と同じ。腕を別レイヤーで作業したりすると、トライアル&エラーが出来て便利だ。

(あ、白い部分に陰影付けるの忘れてた!)


(6)顔を付けて完成

ホントならここで、ハミ出した部分を綺麗にしたり、服にシワを入れたりなどのディテールアップを行うべきなんだけど、難しいからパス。顔も描き起こすのは面倒なんで、前に使った顔をのせておこう。ここまでで、所要時間なんと40分。超ラクチンじゃね?

胸とか肩とか二の腕が無いような気もするけどw、つうか、クビレとか陰影とか気合い入れた部分が全部隠れちゃってるような気もするけどwww、そこはその、デフォルメってコトでひとつご了承いただきたく。でも、扇情的であるコトだけは保証出来る。

やってみれば解る。

tsurumy at 00:47 | リンク | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年12月17日

まだ続いている「萌え」勉強のコト

たけくまメモに触発されて萌え絵の勉強を始めて以来、各方面から「鶴見はいったいどこに向かっているんだ」とか「クオ・ヴァディス・ツルミ?」とか云われまくっている鶴見だが、実はまだ2階にいるんですまだ続けていたりする。ホントに鶴見は何を目指しているんだろう。自分でも分からなくなってきちまったよ、あはは。

でも乗りかかった船なんで、まだまだ突っ走ってみる。


左の絵が前回描いたモノだが、これでは今後様々なポーズをさせる上でいかにも窮屈なので、身体を200%(2.5頭身)、300%(3頭身)と、それぞれ拡大してみた。3頭身はチト大きすぎるが、2.5頭身あれば様々なポーズをさせられそうなので、とりあえず今後はこれをベースとするコトに決定。


つうかね、一口に「萌え」と云っても、ムチャクチャ広い概念であるコトに気付かされたワケですよ。リサーチすればするほど分からなくなる。「キャラ萌え」だけなら、ヒット作に対するファンの行動として解らないでもないけれど、「属性萌え」「服装萌え」「シチュエーション萌え」「小道具萌え」「仕草萌え」「場所萌え」「髪型萌え」とか来た日にゃ、そこまで物語を因数分解してパーツ化するコトに、何の意味があるのかと。

――あ、再生産の効率が上がるのか(今気付いた)。おまけにインターネットでの流通もラクチンだ。

パーツ(あるいは「記号」「ネタ」)をネットに投入すれば、同好の士はすぐ見つかるし、AAやコピペの台詞替えで、いくらでも萌えの創造は発展する。こう考えると、なるほど確かに意味はある。インターネットの普及と「萌え」概念の一般化が歩を一にしているコトも、この考えを補強してくれそうだ。

  • 「物語素」「キャラクター素」のパーツ化と、その流通

この辺り、夏目房之介氏が(さすがに)上手いコト書いている

図像・記号の断片を、たんに組み合わせることで生まれる感触なんだけど、何ていうかどっかで「生々しさ」(エロス的な感触)にジャンプする瞬間があるような・・・・。それって、あきらかに「そこにいない誰かを相手に仮想した、つながりの感覚」でもあったりする

組み合わせているだけで、(仮想的に)他者に認められているような、同好の士の中で自己発現が出来るような、そんな想い。これは「萌え」そのものではないだろうけど、「萌えムーブメント」がインターネットに乗って盛り上がった主因の一つではありそうだ。

閑話休題。

さらに、リサーチを通じて気付いたコトがある。「萌え」という現象は、昔、「2次コン(2次元コンプレックス)」と呼ばれていたモノと非常によく似ている。生身でないモノに対する愛情とか劣情とか、そういった複雑な気持ち(complex)…「2次コン」という言葉は、当時ネガティヴな意味で(「劣等感(inferiority complex)」と等価に)使われていたが、それが時代を経て一般化…つうか拡散したモノこそが「萌え」なのではないか(例えば、フィギュアとかメイド喫茶とかは端的に「2次元」じゃないワケだし)。

これは、社会心理学的な側面からも説明出来そうな気がする。「萌え」の主体たる方々がマーケットでボリュームを持ち始め、社会的な経済活動に組み込まれていく過程で、「合理的機制」によって社会との軋轢を減らすべく内容を変質させる方向(萌え派・穏健派)と、「合理化機制」によって自己を正当化する方向(エロゲ派・先鋭派)とに分化していった、という具合だろうか。あるいは同好の士が居れば「赤信号みんなで渡れば怖くない」的な安心感も生まれよう。

かくしてinferiority complexは単なるcomplexとなり、共感する(あるいはカミングアウトする)人間も増え、一般層をも巻き込む程に成長したと。もちろん、一般化していく上で、「萌え」という言葉の柔らかな語感が有効に働いたコトは云うまでもない。どこから生まれたかは知らないが、非常に秀逸なネーミングだ。


さて、頭身も決めたので、早速ポーズを変えてみた(膝の接続とか脚の付け根とかの、デッサン関係のツッコミは禁止だ)。ここにミニスカとニーソックスを穿かせて、見えそうで見えないショーツと絶対領域をアピールしようかと思ったのだが…服を着せる前にリサーチしてみたトコロ、なんと胸がデカすぎるとの意見が出てしまったのであった。

工工エエェェ(´д`)ェェエエ工工

巨乳と縁のない鶴見が、自らを叱咤激励しつつ不惜身命な想いでそれっぽく描いたのにー!


いや実は、鶴見はリサーチの最中に「萌え」と「エロ」の切り分けが個人的に理解出来なかったのですよ。どこまでが萌えで、どこからがエロなのか。一般的に「萌え」とされている絵にも、パンチラなんかが当たり前のように入ってたりするワケだし。でも、「2次コンが一般化したモノ」だとするならば、鶴見的にも実感としてよく理解出来る。創作物に対する(決して満たされるコトのない)愛情という意味では、「萌え」も「エロ」も根は一緒。一種のファンタジー。もっと云えば、アイドル(偶像)を好む心の動きも似たものだ。ならばこそのコスプレアイドルであり、声優アイドルであり、メイド喫茶…なのだと思う。

  • 自分の劣情的ファンタジーを投影できる対象

んでもって、処女性を重んじるなんてのは、いかにも現代的なファンタジーだ。少女漫画的画風がメジャーなのも、その一端だろう。もちろん、安野モヨコとか矢沢あい的な非処女的少女漫画ではなく、もっと低年齢向けの画風。その上、ボクだけのアイドルであり、ツンツンしてるのに二人きりだとデレデレ。ああそういえばツンデレってのも、男の理想として昔から謂う「昼は淑女で夜娼婦」じゃあないか。見事なオブラートっぷりだ。そういえば、最近は「着エロ」なんてのも流行ってるんだっけか。

  • 「萌え」は、オブラートに包んだ「エロ」


さて、胸も小さくし、仮にシチュエーションを想起させるような台詞も付けてみた。

とりあえず、ひと通りの要素は入れてみた格好だ(実際には萌えられないと思うけど)。ここから先は、表現としての完成度の話になるだろうかね。太もものチラリズムを表現するんなら、こうした俯瞰ではなく、もっと接写カメラの方が良さげだし、羞じらいを表現するんなら、手で隠そうとしている演技とか、あるいは何か服を急いで着ようとしている(でも乱れている)演技が必要だと思う。


というワケで、ここまで実際に手を動かして「萌え」を探るアプローチを採ってきた鶴見だが、ここで書いた内容って、あくまで「萌えの一形態」にしか過ぎないワケなので、このまま絵を改良し続けて所謂「萌える」絵にたどり着けたとしても、その先には荒涼たる茫漠な大空間が広がっていそうな気がする。なので、今回はこの辺りでオシマイにしておこう。あー疲れた、オヤツたーべよっと。


【おまけ】
腐女子方面の方の為にこんなのも描いてみた

上の論でいくと、女子と萌えってのはどうにも繋がらないような気はするんだけれど…これもいつか考えるべきなんだろうか。ああ、不惑を迎えたってのに、世の中まだまだ知らないコトだらけだよ。

tsurumy at 06:11 | リンク | コメント (4) | トラックバック (0)

2005年12月05日

萌え絵を勉強してみたコト

前回のエントリーで、萌え絵であるトコロの「バカなあたし」を描いてみたワケだけど、行きつけの掲示板で、実際に現役で萌えている方々にリサーチしてみたら、どうやら鶴見の絵は「時代遅れ」なんだとか。むー、そうか、そうなのか。

でも、これでくじける鶴見じゃないぜ。より実用性(何の?)を高めるべく、現役の方々の意見を採り入れながら色々と修正してみた。以下はその履歴だ。

これが最初に描いた絵(Version 1.0)。

Version 1.0

目の描き方が、古くさい漫画として認識されているのかなあ?と思い、違うタッチにしてみた。ついでに主線も細く修正(Version 2.0)。

Version 2.0

カラースキームの不統一を指摘されたんで、セーラー服を暖色系に(Version 2.1)。

Version 2.1

ここで重要な指摘があった。ルーズソックスはダメなのだそうな。というか、萌え絵としては非処女の匂いはNGらしい。ああ、それはとても目から蒙膜が落ちる意見だ。なるほどねえ。ルーズソックスは確かに、非処女性を表す記号と化しているものねえ。

というワケで、膝上のニーソックスに穿き替えさせ、ついでに制服を思い切ってブレザー&チェックスカートに替えてみた。ここで鶴見は「絶対領域」という専門用語を覚えたので、スカートとニーソックスの比率を黄金比に合わせてみた(Version 2.2)。

Version 2.2

ブレザー&ニーソックスに着替えさせてみると、今度はセーラー服が持っていた「羞じらい」要素が薄れたように感じられる(そう思うのは鶴見だけかも)。なので、下半身のポーズを若干変えて、何かが漏れちゃいそうな風情の腰の引けっぷりにしてみた。あと、涙も追加(Version 3.0)。

Version 3.0

ついでにテストとして、ニーソックスを生足にしたバージョンも作成(Version 3.1)。

Version 3.1

しかしこちらは、腐女子方面の方から「エロスが混入している」とダメ出しをもらった。今回目指しているのは「エロ」ではなく「萌え」なので、やはりニーソックスの方がいいのかね。あと、涙も記号的な形状の方が良いと云われたので、同じく修正。


そうして清書したのが、この最終版だ。本当はもうひとつ、「手足を末端肥大気味に大きくした方が良い」との意見をもらっていたのだが、そうするとポーズの大幅変更が必要になるので、泣く泣く止めにした。また、ブレザーの中も描いてあるのだが、それは「エロ」方面に行ってしまうので、公開はしない。手足の細部もおかしいが、鶴見は画力に難があるので修正はしない。

Final

うーん、まだ何か違うような気がするなあ。

小学生低学年向けの図版をディレクションするのと、方法論的には変わらないはずなんだけれど、うーん、何だか違和感を覚えてしまう。鶴見にとっては、小学生向けの図版の方が確信を持って決め打ち出来るように思えるよ。やっぱり、常に小学生文化に身を置いている鶴見だからなのかねえ。萌え文化にも身を置いていないと、ちゃんと描けないのかねえ。


【追記】

腐女子方面の方から「これが女装させられた男の子だったら100点」という意見を貰ったので、早速やってみた。うーむ奥が深い。

tsurumy at 10:07 | リンク | コメント (8) | トラックバック (0)

2005年11月25日

「バカなあたし…」を描いてみたコト

キャラクターメイキングも生業の一つとしている鶴見だけれど、もちろん絵描きでもなんでもない。なのに思うトコロあって、萌え絵っぽいモノを描いてみた。やっちまったよ、うはー。お題は、最近流行りのたけくまメモの「バカなあたし…」だ。

バカなあたし…

元ネタはこちら。
【猿漫】可愛い女の子が描けません
【猿漫】バカなあたしが次々に!
【猿漫】これは素晴らしい!
【猿漫】その後のバカなあたし


描くにあたって、竹熊氏の元絵の特徴を、鶴見の考える「萌え」の定義によって、萌え絵的にアレンジしてみた。例えば:

  • ピンピンはねた髪の毛 → 立体物を想起させる形状&塗りに。

  • 昭和臭のただようセーラー服 → ミニ&ルーズでかろうじて平成風に。

  • 哀愁漂う(&物欲しげな)表情 → リアルでない記号としての困った表情+上目遣い



竹熊氏の元絵に無い記号要素はあえて排したが、一つだけ、全体のイメージを「羞じらい」で統一させるために、林檎のイメージを導入してみた。鶴見は「絵柄」というモノを持っていないので、その分、どこかに「この絵ならでは」の記号を入れなければ、キャラとは云えないもんで。あと、描いてみて思ったんだけど、萌え絵ってなんだか、フィギュアの原画みたいだ。んでもって、塗りはコンピュータを使った方が圧倒的にソレっぽい。

それにしても、いくらヒマだからって、こんな絵を描いちまうとは、鶴見ってば本当に「バカなあたし…」だ(笑

tsurumy at 17:50 | リンク | トラックバック (0)

2005年11月20日

あれれ氏への返答コメントのコト

あれれ氏のブログ「ゲームのマボロシ」で、先日書いた「ネット*゛ャル」が採り上げられていた。しかも、なんだか興味深いコメントが付いている。これは鶴見からもコメントを返すのが礼儀だろうなと思い、先方のコメント欄でつらつらと書いていたのだが、なんだか長くなってしまったので、こちらに移して書くコトにする(なので、文体が違うのはご愛敬)。


「ネット*゛ャル」についてのエントリーでは、失敗の原因をあえて書きませんでしたが、「通りすがり開発者」氏(「ゲームのマボロシ」コメント欄参照)の謂いに沿って強いて書くなら、1997年当時「c)現実的な環境&市場」が欠けていた」というコトになりましょうか。

ぶっちゃけ、商売となる途が見えなかった。そしてモチベーション消失。なので、「失敗」というより「失速」というか「立ち消え」というのが正解だったりします(笑)。メンバー全員が別に本業を持っていたので、商売になりそうもない実験作に、それ以上リソースを費やすコトが出来なかったというコトでもあります。

ゲームデザイン的には、企画リソースを費やせば完成するのは当時から見えていました。今からでも完成させるコトは出来ると思います。ことにWeb2.0流行りの今だったら「Web2.0的なゲームです!」とか企画書に書けば、チームメンバーの理解も早いでしょうし、なにより、金持ちのオヤジを転がして、よりラクチンに実現出来るかもしれません。

では、ネット*゛ャルに「ポストモダンなゲームデザイン技法」やら、「ここ数年で急速に普及したインターネット環境」やら、「Web2.0的な視点」とやらを加えれば、現実的なプロダクトとして成立するのでしょうか? ――そうではないと思います(というか、どれも既に含んでいました)。きっとネット*゛ャルは、実験作としてしか着手し得ないモノ…「商品としての種」ではないモノだったのだと思います(発案者として無責任な物言いですが…汗)。


ゲーム企画というモノは、属人的というか、ある人間の「作り上げたいという意志」によってドライヴされるモノだと思っています。それは、モチベーションでもありますが、むしろ「ビジョン」とか「インベンション」に近い。それ無しにゲームは(というか創作物は)生まれないと思っています。それは鶴見の経験則です。

確かにゲームデザインには「セオリー」と云えるモノがあるのですが、とは云え、セオリーをいくらツギハギしても「ゲーム」にはならない。アイデアを篩い分ける「ざる」はどこまでいってもざるであり、誰かが生んだ「種」(あれれ氏の云い方では「卵」)がなければゲームは生まれない。種があってこそ、それをセオリーによって「磨く」コトが出来るワケです。

んでもって再三述べている通り、鶴見は「Web2.0」を結果論だと考えています。もっと云えば、Web2.0というのは「セオリー」の一つではあっても、すべてをカヴァーする「ルール」では有り得ない。しかも、「今の時代の」セオリー…というか、むしろ「ブーム」の一つに過ぎない。喩えるなら、スト2以後、対戦格闘ゲームが氾濫したようなモノだと考えれば解りやすいかもしれませんね。


話はちょっとズレますが…スト2流行りの当時、とあるゲームが上からの業務命令によって方向転換を強いられ、当初の予定とは違う「対戦ゲーム」に改造させられてしまったと思ってください。たまたま企画者(鶴見ではありません)が有能だったので、微視的に見れば、スト2の成功の法則を綺麗に移植していたというコトにしましょう。

ならばそのゲームは成功したのか?

――あっという間に忘れ去られました(いや、カルトなファンはいまだにいるのですが…笑)。

ただ、その企画者は後に、対戦筐体という(スト2のおかげで)ゲームセンターに行き渡ったインフラを存分に利用した「彼の発案になるゲーム」によって、リベンジを果たしたというコトです。セオリーを自分のスキルとして身に付けた彼が、自分の「種」を適切にインキュベートしたというコトになりましょうか。


で、「ネット*゛ャル」の話にもう一度戻ります。鶴見は、「ネット*゛ャル」を自分のブログで公知とするコトによって、ある意味「捨て」ました。なぜなら、鶴見が仕事として手を着ける価値のある「種」ではないと判断したからです。それは、どんなセオリーで磨いても無理だと考えるからです。

でも、種なんか捨ててもいいんです。「ゲームのルール」についての考えも昔よりは遙かに深まっていますし、あとは「時代のセオリー」に適度にsavvyだったら、種なんかまた幾つでも見つけられるだろうと思ってますから。まあ、そうでなきゃ「企画屋出身」なんて名乗れないって話でもありますが(あ、これって、DAKINIさんトコの「昔語りとクリエイティヴの違い」に対しての意見表明にもなってますね)。

まあそういうコトです。

tsurumy at 23:59 | リンク | コメント (3) | トラックバック (0)

2005年11月16日

ざるの会を再発見セヨのコト

ゲームに関する言説を「日本語で」眺めると、なんていうか、とても基礎的なトコロであーだこーだ云っている様に思えてウンザリしてしまう。舶来主義を気取っているワケではない。「Rules of Play」なんて2年前の本だろ。コスティキャンの論文に至っては、NIFTY Serve全盛の頃だから…えーと…10年以上も前の話じゃないか。しかもTRPGに関する論文だ。そういった古文書をありがたがって引用している方々というのは、本当に「ゲーム大国・日本」に今を生きている人間なのか?

とか云いながら、鶴見がするのも古文書の話だったりする(笑)。今から13年前に初版が発行された「ゲームデザイン入門」(ざるの会、1992-1997)という同人誌がある。初期においては、コミケその他の同人誌即売会でしか入手できず、一種「知る人ぞ知る」…いやむしろ「知る人ぞ識る」的な冊子だったのだが、現在、リンク先に全文が再掲されているので、みんな読んでくれ、まずはそれからだ

念の為もう一回、大きくリンクを貼っておこう。

「ゲームデザイン入門」(ざるの会、1992-1997)

狭義のゲームデザインとアーケードビデオゲーム制作についての論文で、今読み返してみると古い箇所もあるが、そりゃそうだ、初版から既に13年も経っているんだもの。しかし、ゲームによってプレイヤーに何が起こるのか――プレイヤーに何かを湧き起こさせるゲームを制作するためには何をすべきなのか、そういった狭義のゲーム性に関する考察は、今もって古びていない。そして、ドッグイヤーなゲーム業界の中で13年もの長い時を経て、ゲームに関する言説がここから相応に進んだかと云えば、全くそんなコトがない。これはいったいどういうコトか。せめて、本書で書かれているコトぐらいは常識として、その先の議論をしたいのだが。


「ネット*゛ャル」についてのエントリーで、鶴見は「これからはWeb2.0ゲームだ」といった言説を揶揄したワケだが(いやそう思わなかった人もいましょうが、そうなのです)、ざるの会の本の中で、そんな鶴見の想いを簡潔に述べている表現があったので引用させていただこう。

「ゲーム業界馬鹿発言大将1994」

ビデオゲームの表現能力が限定要因になり「人間の暴力」を表現できなかった時代が、つい最近まで続いたんだ。人間を生き生きと動かせるようになった今、ようやく「暴力」という普遍的な刺激をゲームに活かせるようになったんだ。時代の流行と簡単に言うが、メーカーがいくら作ってもプレイヤーが支持しなければ流行にはならない。流行は原因ではなく結果なのだ。

「これからはゲームもWeb2.0だ!」とか云う人は、「ハッピーメディアクリエイター」とか名乗っちゃうといいと思う。

tsurumy at 17:20 | リンク | トラックバック (1)

2005年11月14日

ネット*゛ャル2.0のコト

すっかりフェードアウト組の鶴見ではあるが、流行に追いつこうとWeb2.0とゲームを関連づけるような言説を読み散らかしていたら(「発熱地帯」のこれとかこれとか、「ゲームのマボロシ」のこれとかこれとか、他にもこことか、まあここも)、なんだか妙なデジャ・ヴュにおそわれた。このコンセプトってなんだか、どこかで見たコトあるぞ。つうか、考えたコトがあるぞ。


昔々のはるか昔、SCEIのサイトが「GARAGE」という名前で手作り感バリバリだった頃、鶴見達は本業の合間にネットワークゲームの実験なんぞをやっていた。あれは1997年頃のコトだったろうか。

形になったモノ(ロドモンとか)もあったけれど、形にならなかったモノの方が多かった…マルチプレイヤー海戦交易シミュレーション「キャプテン・フネゲール」なんて、プロトタイプは公開したものの、今やググってもヒットすらしやしない。伝説の巨人族船長フネゲールが遺した財宝を求め、七つの海をまたにかける船ゲーフネゲール。やっぱりネーミングが安直過ぎたのかなあ(←そういう問題ではない)。

その、形にならなかった実験作群の中に、「ネット*゛ャル(仮)」というモノがあった。ネットギャルならぬ「ネット*゛ャル」。プロト画像は「GARAGE」で公開したはずなのだが、これまたググってもヒット無し。やっぱり「*(アステリスク)」が混じると検索できないもんね(←そういう問題でもない)。“肉体絵描き”らっきー斉藤や、“ゲーム屋”島国大和、“編プロ社長”はなぢ、“ネット仙人”JOE、という謎の面子で作っていたゲーム(と呼んでいいのか)なのだが、これがまた、Web2.0流行りの今見ると、なかなか興味深いのだ。完成しなかったけど。


当時の仕様をつらつらと思い出してみると、メインのアプリは「人工無脳」をベースにした女のコとの会話ゲーム(ちなみに女のコの名前は「柴門しえり Sai-mon Cheri」)。ここで面白いのは、会話の方向性によって、しえりチャンのキャラがどんどん変わっていく、というトコロだ。しえりチャンのキャラクター性を「知的-痴的」「積極的-消極的」(だっけかな)という2軸上にマッピングし、入力する単語の傾向によって、それをどんどん変化させてゆく。見かけ(メイクや服装)も変われば、口調や話題も変わってゆく。育て方によっては、メイド服ばかり着て「ご主人様」なんて言い出しちゃう可能性もあるワケだ。

そしてもう一つのキモは、それを多人数で行うというトコロだ。話題データベース&性格パラメータはサーバーに一つだけ。それを多人数で改変し合う「綱引き」だ。ただし、各プレイヤーには「好感度」パラメータがあって、好感度の高いプレイヤーには影響されやすい。プレイヤーの目的は、多彩な話題で好感度を上げ、しえりチャンを自分好みの色に染めてゆくコト…なのだが、ネットの向こう側に居る恋のライバル達がそれを許さない。

特定の条件下では、プレイヤーがしえりちゃんに、任意のアクセサリーや服装を提案するコトも出来る。「ゴスロリ着たら似合うんじゃね?」とかなんとか。ただし、しえりチャンはすぐにゴスロリに着替えるワケではなく、他のプレイヤー達との会話中に、それとなくお伺いを立てるコトになる。「アタシ、ゴスロリ似合うかなあ?」とかなんとか。それでウケが良ければ、ゴスロリ方面に移行するコトになる。

しえりチャンの性格変動を「系」として捉えるなら、性格はいずれ「安定する」(一所に落ち着く)。例えば、しえりチャンがいったんヲタ化してしまったなら、ヲタ的話題にしかノってこない(=好感度は上がらない)ので、ヲタ以外には移行しにくくなってしまう。これを覆すには、多くの人間が「非ヲタ化」を望むしかない。つまり、少数の影響力の強いプレイヤー(=友人の意見)と、多数の影響力の弱いプレイヤー(=世間の流行)というモデルだ。友人の少ない初期には、流行に左右されて性格はコロコロと変わるだろうが、友人が生まれ(もしかしたらコミュニティ化し)てゆけば、そちらに安定するようになる。なので性格は平均化せずに、突出した個性が生まれつつ、望まれる場所に落ち着くコトになるだろう。

しえりチャンのキャラクターがある程度安定してしまったら、次のキャラ「柴門なみ Sai-mon Ami」の登場だ。なみチャンは、しえりチャンの双子の妹。いつも二人一組で扱われるコトに反発して(という設定で)、出来る限りしえりチャンのキャラクターから離れようとする。しえりチャンが積極的なら、なみチャンは消極的方向に移行しやすく、しえりチャンがポニーテールなら、なみチャンはツインテール方向に移行しやすい、という具合だ(いや、ポニテ←→ツイテはちょっと違うか…笑)。

もちろん、なみチャンが安定したら、初期設定と学習の方向性を変えた別の女のコを出せば良い。いくらでも作れる。――いや、「作れる」というのは適当じゃないな。「生まれる」の方が適当か。鶴見の私見では、「定形+記号の組み合わせ」だけではキャラクターとは云えないが(いや、そういうノーアイデアなキャラって世間に氾濫してるんだけど)、こうした「キャラクターの成立」そのものをモデル化した方法論で作られるのであれば、「生まれる」の方が適当なように思う。そして「育つ」のだ。


ドリマガ掲載版の嘘六百で書いたコトではあるが、世にあるゲームの大半が、我々の世界の一部分を切り取って純化・モデル化した物であるように、ネットゲームもまたネットワーク上でのコミュニケーションをモデル化した物の方が受け入れられやすい(→嘘六百・第33回/「オンラインゲーム」(1))。

後付けの理論で云うなら、この「ネット*゛ャル(仮)」、2ちゃんねるでモナーやモララー等のアスキーアート・キャラが生まれ、キャラクターとして成立したモデルに近いと思う。キャラクターが作家の手によって成立するのではなく、多数のユーザーの手によって半自立的に生まれる。

ああ、書いててやっぱり確信した。これって極めてWeb2.0的だ。


もしかしたら、こういうゲームは既にあるのかもしれないけど、自分で作るワケじゃないから特に調べたりはしない。でも、他人に独占されるのはイヤなんで(笑)、こうやって公知にしておく(実際には1997年の時点で公知なワケだが)。誰か作るのであれば、ご自由にどうぞ。

【追記】
結局ナニが云いたいのかというと、『「Web2.0」「Web2.0」って叫ぶコトに何か意味あるの?』ってコトだ。今の状況(あるいは半歩進んだ状況)で出来る面白いコトを追い求めていったら、いわゆるWeb2.0的になるコトもあろう。ゲームとても時代の子なのだから。でも、「Web2.0的なゲームを作ろう」って、鶴見にしてみれば「なんだかなあ」だ。10年以上前に「ざるの会」のメンバーと議論した「ざると種」の話を思い出す。

人の行く裏に道あり花の山。


【追々記】
某所より、「それって『コラボレイティヴ・ランク(Collaborative Rank)』と一緒じゃん」というチクリがはいった。詳しくは、HotWiredの記事を見ていただきたい。

「ソーシャル・ブックマーク」が流行の兆し(HotWired Japan)

コラボレーティブランクは検索エンジンなのだが、評価が高いネットサーファーが見つけた検索結果を特に重んじる仕組みになっている。

確かに似てるね、うん。

以上。

tsurumy at 19:01 | リンク | コメント (3) | トラックバック (2)

2005年11月12日

時折綴る「子供にゲームをさせよ論」のコト

「本日いらしているお母さんお父さん方は、なんでお子さんがTVゲームに『ハマる』のか、全くわからない方がほとんどだと思います。今日はその辺りについて、TVゲームを作っている側のワタシが、その仕組みについて解説させていただこうかと思っています。なにせ、子供をゲームにハマらせようと、あれこれ知恵を絞っている悪人(笑)というか張本人なワケですから、これ以上に的を射た話はないと思いますよ。それではご静聴よろしくお願い致します。

「まずお話を始める前に、ちょっと皆さんに質問をさせていただきたいと思います。よーく思い出してから答えてくださいね。――昨日、お子さんを『褒めた』という方、いらっしゃいましたら挙手願えますか?それじゃあ、もうちょっと範囲を広げて、今週、お子さんを『褒めた』という方?

「どうやら、あまり多くはないようですね。いや、なんでそんな質問をさせていただいたのかというと、実はここに、子供がゲームにハマる本質があるんですよ。最初っから手の内バラしちゃってますけど(笑)。

「実はTVゲームというのは、遊んでいる人間を『褒める装置』なんです。問題を出して、成功したら褒める。失敗したらペナルティを与える。我々はこれを『ゲーム性』と呼んでいますが、これがまさに、TVゲームという装置の本質なんです。

「誰だって、褒められれば嬉しいですよね? ところが実生活では、褒められる体験というのはあまりにも少ない。お母さん方、お子さんを叱ってばかりいませんか? 『またイタズラばかりして!』とか、『悪い点ばかり取ってきて!』とか。叱る方ばかりが多くなって、褒める方というのはついつい疎かになりがちです。

「でも、ゲームを作っている我々は、なるべく『褒めよう褒めよう』と思いながらゲームを作っているんですよ。毎日褒めたい。毎回褒めたい。出来れば『10秒に1回』、いや『60分の1秒に1回は褒めたい』、そう思いながら、プログラムを作っているんです。さすがに親御さんでも、60分の1秒に1回褒めるのは難しいでしょう(笑)。疲れちゃいますもんね。でもゲームというのはコンピュータですから、疲れずに褒め続けられるんです。

「とは云っても、褒められるだけじゃ飽きちゃいますよね。人間というのは刺激に慣れる習性がありますから、褒められ続けると『またかよ』とウンザリしちゃう。そこで我々は、出来る限り色々な行動に対して褒めようと、手を変え品を変え、色々なバリエーションを用意しているワケです。

「例えばさっき、『またイタズラばかりして!』と云いましたけれど、我々は、同じイタズラでも、創意工夫のある『褒められるべきイタズラ』というものがあると考えてます。大人からしたら、どう見てもイタズラはイタズラで、叱るしかないんですが…というかワタシだって叱りますけど(笑)、でもゲームの中では、創意工夫に対して褒めてあげる。これは、実生活ではあまりないコトですし、だからこそ、子供が惹き付けられるんですね。

「そしてもう一つ、ちゃんと叱ってあげる、というのも重要です。『ちゃんと叱る』というのは、実はすごく難しいコトなんです。子供がハマるよく出来たゲームというものは、ちゃんと叱るのが上手いゲームなんです。ここでは『叱る』と云ってますけど、要は『ペナルティを与える』というコトですか。『なんで失敗したかを理解させながらペナルティを与える』これはとても難しいコトなんですけれど、それが出来れば逆に『褒める』コトも活きてくるワケです。『褒める』と『叱る』とがペアになると、ものすごい威力を発揮しますね。

「ここで注意していただきたいのは、あくまでも『褒める』のがメインだというコトです。よく出来ていないダメなゲームのコトを『クソゲー』なんて云いますが、クソゲーの大部分は、叱るのが下手だったり、褒めてくれなくて叱ってばかりのゲームだったりします。あるいは、絶対に達成出来ないような目標を与えて、全く褒めてくれないゲームなんかもそうですね。子供はクソゲーに見向きもしませんから、やっぱり『褒める』のが重要だというコトです。

「クソゲーと云えば…たくさん褒めてくれるゲームであっても、クソゲーと呼ばれて、子供が見向きもしないモノがあります。それは『ルールがはっきりしない』モノです。褒められたんだけど、なんで褒められたのかわからない、とか、さっきは褒められたのに、今度は褒められなかった、という類のモノですね。子供は不公平に扱われるコトに対しては敏感ですから、こうしたモノは好みません。最近では少なくなってきましたが、昔はこうしたクソゲーがたくさんありました。

「お母さんお父さん方、その日の気分によって叱り方や褒め方を変えてはいませんか? それではまるでクソゲーと一緒で、叱っているコトにも褒めているコトにもなりません。むしろ、子供を混乱させるだけです。そうした態度を取れば取るほど、子供は、良く出来たゲーム、つまり『ちゃんと褒めて、ちゃんと叱ってくれるゲーム』に向かうコトになるでしょう。

「それでは、今日はこの辺にしておきましょう。なんだか、どこかで聞いたような教育論っぽくなってきましたけれど、これは、子供向けゲームを作っているワタシの実感として、同じ結論に達しているというコトです。

「次回は、親御さんが『子供とゲーム』に対してどのような態度を取るべきか、ゲーム制作者としてのワタシの考えを述べさせていただきたいと思います。本日はご静聴ありがとうございました」

tsurumy at 14:17 | リンク | トラックバック (5)

2005年11月10日

サイボーグ技術が人間を変えているコト

NHKスペシャル「サイボーグ技術が人類を変える」を観て、鶴見が最も衝撃を受けたのが、「脳味噌にコネクタを付けた人が既に存在する」というコトだ。

番組中では、カメラの映像を脳味噌に直接入力している盲人の方が紹介されていた。原理的には、眼鏡に付けたCCDカメラの信号を、腰に巻いているコンピュータを使って、脳の中を流れる視覚信号に変換(変調・シンセサイズ・エミュレート、どの語が適当なんだろう?)し、頭蓋骨に設置したコネクタを通じて神経に入力する、というやり方だ。

かき分けた髪の毛の間に現れるコネクタ。フィクションの世界ではお馴染みの光景だが、実際に観るとかなり衝撃的。その思いっきりにキンタマキュ~。

ちなみに、この方が見ている画像は白黒で解像度も粗いのだが、それは、このシステムを開発した研究者が開発後に逝去してしまった為だという。もしバージョンアップを続けていれば、最新の技術で今頃はカラー画像になっていたトコロだろう。まあそれでも、暗闇の世界と比べれば、光が見えるコトは感動的なほど嬉しいのだそうな。

だが、コネクタぐらいで驚いてちゃいけない。最近は聴覚障害者の為に「人工内耳」というモノが開発され、ある程度は一般化しているらしいのだが、それなどはワイヤレスだ。

耳のマイクロフォンが集音した信号は、こめかみに磁力でピタっと貼り付けた送信機から、受信機に向けて送られる。んでもって受信機は、頭蓋骨の裏。そこから聴覚神経に信号線が引かれているのだ。まあ、画像と音声じゃ転送量というか帯域幅が違うけど、WiFi流行りの昨今、確かにコネクタなんて要らんよな。


ここまでサイボーグ技術が発展した原因は、ここ数年の間に、脳内の信号を検出する技術が格段の進歩を遂げた為らしい(学会も、ここ5年で急速に盛り上がる様になったのだそうな)。プローブ(センサー)自体は新発明ではなさそうだが、それを脳内のどの部位に埋め込めば機能するのか、そういった研究が蓄積されてきたのだろう。

というか、プローブは本当にショボい。QFP系LSIの足が1列15本とか、そういうレベルの形状だ(サンハヤトアルプス電気で作ってそう)。なのに、密度の高い信号が行き来しているであろう脳味噌から、目的の信号を検出したり、目的の神経に信号をブチ込んだりしている。本当に大丈夫なのか?と心配になってしまうが、これで案外と大丈夫なのだそうだ。

推測だが、大雑把な入力信号でも学習によって、その信号に意味付けをするのではないか。あるいは、出力信号もやはり学習によって、意味のある信号に育っていくのではないか。

例えば、番組内で、腕を失った日本人女性が付けた「人工義手(触感センサー付き)」の例。fMRI(磁気共鳴断層撮影装置)を使って、(1)付けた当初と、(2)トレーニング(リハビリテーション)後の脳活動を比較しているのだが、(1)の状態の脳では様々な部位が活動しているのに比べて、(2)の状態の脳は、特定の部位のみが活動している。明らかに脳が学習して(ひょっとしたら信号も最適化して)いるのだ。


ここで鶴見は、森“ゲーム脳”昭雄の主張を思い出した。ゲームをしていると脳の活動範囲が狭くなってキレやすくなる、とかなんとかバカげた話だったはずだが、何のコトはない、それは単なる学習ではないか。

  • プレイヤーによる入力→(ゲーム機による評価)→報酬→入力→…

というフィードバックループが学習を促すのは当然であり、学習の結果、脳活動の範囲が狭まるのは、番組で示されている様に「当然」なのだ。するってえと何か、森昭雄は「リハビリでもキレやすくなる」と主張するつもりか。「リハビリよりもお手玉をやれ」なのか。脳の至極当然な活動に、恣意的でしかも扇情的な意味付けをしていた森昭雄の(学者とも云えない卑怯な)手口がよく解る。

そして同時に、世間が「ゲーム」と「脳」と「恐怖」という三題噺に過剰に反応した理由も推測出来る。「人為的なルールによる学習」というゲームの仕組みは、確かに「改造」とか「洗脳」というイメージ付けをしやすく、皮膚感覚的な「恐怖」を想起させやすい。「ゲーム」によって「脳」が不可逆的に改造される「恐怖」を、森昭雄のトンデモ本によって連想させられてしまったのではないか。まったく森の野郎、上手いツボを突きやがったもんだ。


――なんて論調でゲームを擁護しておきながら、一方で鶴見は、「サイボーグ技術とゲームを組み合わせれば、倫理的に問題はあるんだろうけど…相当に面白いんだろうなあ」とも夢想してしまう。

番組中、パーキンソン病(ドーパミン細胞の異常による脳疾患)の治療の為に、脳に信号を送る例が挙げられていた。ご存知のようにドーパミン細胞とは、生物の生存に必要な報酬の獲得に関わり、複雑な運動を学習するのに役立つことが知られている。鶴見は、ドーパミン細胞は、ゲームの快感発生にも強く関わっているだろうと推測している。

ならばその先には、脳に信号を送る「ゲーム」(と云っていいのか?)があるのではないか。

脳味噌から直接信号を取り出し、また信号を入力するコトが出来るのであれば、それこそ究極のインターフェースだ。ゲームに関して云うならば、昔、「レバーを動かしたら、ディスプレイ内の絵が動く」それだけで面白かった頃があったように、「考えるだけで何かが動く」というのには、根源的な面白さがありそうだ。学習の面白さもあるだろう。ひょっとしたら、ドラえもんの「エスパーぼうし」だって作れるかもしれない(「エスパーぼうし」で超能力を獲得するくだりは、極めてゲーム的だ)。

倫理的な面から云えば問題が大アリだし、万が一実現してしまったら、「ゲーム脳」の比ではないバッシングが待ち受けているだろう。

でも…誰かがやっちまうんだろうなあ…。ヒソカに楽しみにしている鶴見ではある。この話は「夢想」なんかではなく、もう明日にも実現可能で、今から思索を深めなければ間に合わない現実なのだ。

それを実感させてくれた番組であった。

【追記】
そういえば、『喜劇新思想体系』(山上たつひこ)に、脊髄の特定部位に電極を差して射精中枢を直接刺激する、なんてエピソードがあったっけ(アースしないと感電死します)。

【追々記】
最初は、本文の最後を

だが。そうした研究を通じて、「ゲーム」というモノが生理学的に解き明かされていけば、(サイボーグ云々を抜きにしても)少なくとも森昭雄みたいなトンデモ野郎が生まれる余地は無くなるんじゃないかなあ、と思った鶴見ではある。

とシメたんだけど、書いた後で思い直した。これほどの科学の世にもニセ科学はあるワケだし、それにダマされちゃう方々とか、ニセ科学を学校の教材にしちゃう方々まで居るのが現状。いくらゲームが生理学的に解き明かされていっても、森昭雄は嬉々として「ゲーム脳の恐怖」を書き続けるんだろうね。世にゲーム叩きのタネは尽きまじ、かも。

【追々々記】
立花隆氏のコラム(nikkeibp.jp)によれば、番組の最後で「人格脳」「身体脳」について語るつもりだったが、放映時間の都合でカットされてしまったのだという。まだ仮説に過ぎないそうだが、人格脳に影響を与えない身体脳の学習(改変、と言い換えてもよい)、というモノが明らかにされる過程で、森昭雄は正統なアカデミズムとの対決を余儀なくされるであろう(わーいわーい、どんどんやれー)。

【追々々々記】
番組を詳しくレポートしているブログからトラックバックをいただいた。今回のエントリーが解りにくい方は、こちらも読むといいかも。

tsurumy at 23:59 | リンク | コメント (1) | トラックバック (4)

2005年11月06日

パチンコ・パチスロと「ゲーム性」のコト(予告)

以前書いたのだが、パチンコで勝ちまくった時期があった(→2002年4月2002年5月)。

150万近くを稼いだ「CR出動!ミニスカポリス」を筆頭に(ちなみにミニスカポリスは、鶴見に初めて「萌え」を教えてくれた素晴らしい台なのだがそれはともかく)、「CRぱちんこイエローキャブ」50万以上稼ぎ、「CRおそ松くん」で、人生初の25連チャンなる爆発的出玉があったかと思ったら、「CRぱちんこウルトラセブン」朝イチ五百円で28連チャン(時給6万円)という猛爆的出玉まで体験してしまった(合わせて80万以上)。

ところが、今年の4月16日以来、「勉強の為」と「パチスロ北斗の拳」を始めたトコロ、初めて打った日こそラオウを昇天させて(35連)10万勝ちをおさめたモノの、後は勝ったり負けたり、負けたり負けたり。なあんだ負けてんじゃん。

それにしても、パチスロ屋の風景を眺めていると、往時のゲームセンターを思い出す。遮光段ボールを使っていた頃の薄暗いゲームセンターのコトね。無為徒食の若者が習慣的に出入りして熱狂し、独自のマナーが生まれ、攻略情報が流通する。コンビニに置いてある攻略雑誌の類を見れば判るのだが、作りがまんまゲームの攻略雑誌と一緒だ。この辺り、鶴見にパチスロを教えてくれた友人(ゲーム制作者にして古株ゲーマー)も同意見。規模に違いはあれども、状況はソックリなのだ。


ここ3年以上のパチ経験を通じた思索によれば(パチンコ遊戯中は思索に持ってこいである)、パチにはビデオゲームとほぼ等価の「ゲーム性・体験」があると考える。もちろん、パチは「チャンスのゲーム(a game of chance)」であり、「スキルのゲーム(a game of skill)」たるビデオゲームとは区別されてしかるべきだが、微視的に(あるいはプレイ中の心の動きを)観察すると、非常に似た構造と結果をもたらしているとしか考えられない。

――てな考えを、ちと文章にまとめてみようと思っている。上手くまとまったらお慰み、だ。

【付記】
鶴見はコトあるごとに「ゲーム性・体験」と表現しているが、これを「ゲーム性体験」とすると、「ゲーム感覚のアバンチュール(←古っ!)」とか「エロゲーによる現代のヰタ・セクスアリス(←もっと古っ!)」とかと混同されそうなので、こうしている。カイヨワの云う「Paidea」とも、ちょっと違う気がするし…ねえ。

tsurumy at 23:08 | リンク | トラックバック (0)

2005年11月03日

「ゲームの華はアーケード」ではないのか?というコト

鶴見がゲーム業界に身を投じた昭和の末期は、ファミコン全盛期ではあったが、性能・ゲーム内容においては、業務用ゲームこそがゲームの最先端を突っ走っていたと思う。鶴見は「ゲームの華はアーケード」という言葉を胸に抱いて、業務用ゲーム機の開発部署を志望したのだった。

それから幾星霜。

業務用「TVゲーム機」の最先端性は飽和し、代わって台頭してきたのが家庭用。鶴見の仕事も家庭用ゲームの制作にシフトした。しかしその家庭用ゲームとて、携帯電話用ゲームなどに市場を奪われつつあるとされている。

鶴見は一時期、これを「イノベーションのジレンマ」に書かれているような、破壊的イノベーションによる市場構造の変化と捉えてきた。このまま家庭用ゲーム機も衰退して、携帯電話用ゲームが次世代の覇権を握ってしまうんかなあ、と。

それはある評価軸においては正しいのかもしれない。ユビキタス~第3の波という観点においても、必然と云えそうだ。

がしかし、それでいいのか。こと「ゲーム性・体験」という評価軸において、家庭用ゲーム機が(ましてや携帯電話ゲームなどが)業務用を越え得ないのは、「それポン」(2)で書いた「インターフェース」の例の通り。業務用・家庭用・モバイルは、相互補完的に「ゲーム」を発展させるモノだと考える。

このままゲームの市場構造が携帯電話なんぞにシフトしていけば、ゲームは徐々に薄まっていき…あれだ、SFとかが辿ったように、発展から(これはOK)、拡散・浸透して(ここまでは良い)、発酵・腐敗し(ちょ、待て)、ついには雲散霧消(おいおい)してしまおう。


業務用ゲームの復権を夢見る鶴見の書き込みは、レトロスペクティヴなのか?

tsurumy at 23:31 | リンク | トラックバック (0)

2005年11月02日

『それは「ポン」から始まった』読了して思ったコト(3)

もう何度書いたか分からないほど書いているこの言葉~「ゲームは日本社会において、認知は高いが地位は低い」。「それポン」第19章、【新風営法によるゲーム場規制】を読むと、それがよく解る。

ここで云う「新風営法」とは、今で謂うトコロの「風適法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)」のコト。鶴見が丁度「Beep」でライターを始めた頃にこの法律が改正(正?)され、ゲームセンターが、性風俗やテレクラ、パチンコ屋等と一緒くたに扱われるようになったのだ。


改正(正?)の趣旨によれば、

本号は、ゲーム機賭博事犯や少年非行の温床となるおそれのあるゲームセンター等を、風俗営業とすることによりその健全化と業務の適正化を図ることとするものである。

とまあ、もっともらしいコトは書いてある。当時は確かに「ゲームセンターは少年非行の温床」と云われていたものね。でも、なぜそれが「風俗」扱いなのか。その辺りは、8号営業(ゲームセンター)の定義を読むと、事情が見えてくる。

スロットマシン、テレビゲーム機その他の遊技設備で本来の用途以外の用途として射幸心をそそるおそれのある遊技に用いることができるものを備える店舗その他これに類する区画された施設において当該遊技設備により客に遊技をさせる営業

なんのコトはない。「違法カジノ」や「Gマシン屋(10円ポーカー等)」にかこつけて、警察庁が、ゲームセンターを自らの監督下に置こうとした思惑がアリアリだ。それ故の「風俗」なのだ。もちろん、ゲームメーカーのゲームが「本来の用途以外の用途として」違法カジノ等で使われた例なぞ有りはしない。そちらを摘発出来ないのは警察の責任であり、アミューズメントゲーム業界を規制するのは、誰がどう見ても筋違いなのだ。なのに根拠なく(完全にデッチ上げで)警察庁がこの改正(正?)をゴリ押しした経緯は、「それポン」に詳しい。人民は弱く、官吏は強し。


で問題は、業界の自助努力(警察庁の規制などではなく、だ)によって健全化した今もなお、ゲームセンターが風適法の規制下に置かれているというコトだ。想像だが、業界団体(AOUやJAMMA)は、規制を撤廃すべくロビー活動を行っているコトだろう。もし、ゲームの社会的地位が確立しているならば、理不尽な規制を撤廃するにあたり、社会的追い風が吹いてもおかしくない。なのにそれなのに、この規制緩和のご時世だというに、デッチ上げで設けられた規制がいまだ撤廃されない…これこそ、鶴見が「ゲームは地位が低い」とする所以だ。

もし、ゲームセンターが風俗営業の軛から放たれれば、業界の更なる発展が望めるコトは間違いない。単純に云って、24時間営業に出来るだけでも売り上げは大幅アップだし、それ以上に、様々な店作りの可能性が広がるだろう。もちろん、業務用の隆盛が、(家庭用も含めた)ゲーム業界全体にとってプラスに働くだろうコトは、『それは「ポン」から始まった』読了して思ったコト(2)に書いた通り。

新風営法の件といい、森昭雄の件といい、ゲーム業界の地位の低さに付け込んだ憎げなる振る舞いは、どうにかならんもんか。どうにかしなきゃいかんなあ。

(この項、とりあえず了)

【追記】
AMショーなどのオープニングに、かならず族議員の方がテープカットにいらっしゃるのを見ると、もう手を切れないのであるなあ、と思ったり思わなかったり。

tsurumy at 00:06 | リンク | トラックバック (0)

2005年10月31日

『それは「ポン」から始まった』読了して思ったコト(2)

「業務用を軽視してビデオゲームにエポックが生まれるのか?」

まあ実際生まれていないワケではないが、生まれ「にくい」コトには間違いなかろう(つうか、鶴見は作る側なのに、こんな他人事のように云ってしまっていいのか…汗)。「ムシキング」も「DDR」も、「ストII」ですらも、家庭用ゲーム機からは生まれ得ないモノなのだ。

家庭用機が「プラットフォーム」である限り、打ち破りづらい「枠組み」が当然ある(まあそれこそが、大きな商売を可能にする「規格」ではあるのだが)。中でも比重が高いのは「コントローラ」だ。先日のTGSで、任天堂が文字通りレボリューショナルな「レボリューション」用コントローラを発表して世間を驚かせたコトは記憶に新しいが、あれほどの「社運を賭けました」的なスタンスでしかコントローラを改革出来ないトコロに、家庭用プラットフォームの不幸(ひいては、ゲーム業界の不幸)があると思う。

もちろん、別売りペリフェラルとして新しいコントローラを用意するのもアリなのだが、「アイトーイ」「カードeリーダー+」の例を引くまでもなく、商業的な成功を目指すにはハードルが高すぎる。ゲームの価格を大きく引き上げてしまい、それ自体が商業的失敗の原因になりかねないからだ。いわずもがなだが、量産効果によってコントローラ自体の価格を下げるためには、そのコントローラに対応したソフトを数種類用意しなければならない。よって必然的に、大きなプロジェクトになってしまう。これまた「社運を(ry」だ。

かたや業務用。ゲーム価格の内、コントローラの占める割合は相対的に低いので、自由度ははるかに高い。一企画者が企画書に「特殊コンパネ(Control Panel)使用」とか書けちゃう。余談だが、初代「SHINOBI」には、当初「手裏剣コンパネ」を使う計画があったという(ロケテストまでやったそうな)。もちろん、社運なぞかける由もない。世間には多種多様で安価な汎用部品が溢れているので、ゲームに合わせて最適化するのは、思いの外、カンタンなのだ(もちろんハードルがないワケではないが)。


ビデオゲーム娯楽における快感の中核を為すのは、もちろん「判断(操作)-褒賞」のフィードバックループ(世間でいわゆる「ゲーム性」がコレ)であり、インターフェースとゲーム性というのは不可分の関係にある。ゲーム性ウンヌンを云う上で、インターフェース=インプット/アウトプットの内、アウトプット(映像)を進化させながら、インプット(コントローラ)を旧態依然に置いておくのは、片手落ちもいいとこだ。そうした意味からも、DS・レボリューションと続く、任天堂の「コントローラ改革」の方向性自体には、大いに賛意を示す。

だが、インターフェース(コントローラ)がゲーム性と不可分ならば、プラットフォームメーカー一社が(社運を賭けて)最大公約数的に提供する1つのモノよりも、ゲーム制作者自体がゲーム毎にデザインする多様なモノの方が、ゲーム性を進化させる可能性は、遙かに高い。もちろんそれが可能なのは、業務用だけだ。やはり、業務用ゲームの凋落と、「最近ゲームがつまらなくなったよね論」との間には、構造的に因果関係が存するように思えてならない。

業務用TVゲームは家庭用に比べると、何かと不利な環境や立場に置かれることが多いが、業務用が先頭を切ってTVゲームの地平を開いてきたのは、プレイヤーがやってみて面白くなければ撤去されるという、厳しい環境の下にあるためである。(それは「ポン」から始まった・あとがき)

なんだかまた、業務用ゲームを作りたくなってきたよ…。

(まだ続く)

【追記】
インターフェース(コントローラ)について書いているうちに、またフツフツと茹だってきた。

何度でも書くが、ゲームメーカー各社がモバイル市場へ重心を移すのは、目先の利益に釣られて自死へと向かっているように思えてならない。なぜなら、モバイル端末(携帯)は、ゲーム業界外の手によって、ゲームのコトを考慮せずに設計されたモノだからであり、端的に云ってインターフェース能力が低い=ゲーム性も低くせざるを得ないからだ。

なぜゲームというモノがここまで市場価値を持つに至ったのか。もちろん、脳味噌を発火させる「ゲーム性」故であり、ゲームでしか得られない「ゲーム性・体験」があったからだ(広義にも、狭義にも)。ショボいボタンで操作して、サウンドもなく、60分の1秒のインタラクティヴィティにも欠ける携帯ゲームに、それほどの価値があるとは思えない。

ゲーム性の低いサブセット版は、ゲーム体験への呼び水にはなるだろうし、あるいはゲームIPを使って小金稼ぎこそは出来ようが、それをメインストリームにしようと考えている愚かな方々は、ゲームセンターの店員でも2~3ヶ月やって、考えを改めてほしいものである。

tsurumy at 21:10 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年10月30日

『それは「ポン」から始まった』読了して思ったコト(1)

先週から読み始めたアーケード・ビデオゲームの通史書『それは「ポン」から始まった』を、ようやく読了。細かい事実関係について「?」な箇所が無いコトもないのだが、それらはまったくの些末事。アーケード・ビデオゲーム史の流れを過たずに捉えた、例のない良書だという評価に変わりはない。

既存の「ゲーム史本」的なモノは大概、市場に出たゲーム製品群そのものに流れを見出そうとしていたのだが(やむを得ないが)、それだけでは読み取れない「ゲーム業界のダイナミズム」といったモノが、本書には息づいているように思える。業界に身を置いていた鶴見だからこそ感じる、というワケではない。なぜならこれは、ビデオゲームという新鉱脈に群がった「ゴールドラッシュ」の記録なのだから。金の生産量推移統計よりも、49ers達の一攫千金物語の方が面白いに決まっている。荒くれ者どもが集う場所。喧嘩上等、諍いなんぞは日常茶飯。著作権問題ひとつとっても、黎明期は一種の無法地帯だったコトがよく解るし、まさに訴訟上等、諍いなんぞは日常茶飯。だからこそ生まれた野放図なパワーがゲーム表現を豊かにし、業界全体を押し上げ…そして各社とも、今や口を拭って「アレはなかったコトに」と云っているのがよく分かる(笑

それはともかく。

歴史書は、過去を懐かしむ為のモノではなく、未来への道標とすべきものであろう。そういう意味からも、本書はゲーム業界のあらゆる人間に読んで欲しいと思う。鶴見のような「生涯ペーペー」の人間ばかりでなく、むしろエグゼクティヴ系の方にこそ読んでもらいたい(小口っつぁんとか)。


【ワーナー傘下でのアタリ社の栄光と挫折】の章によれば、アタリ(旧)の家庭用コンソール「VCS」は、当初は売れずに在庫を抱えて困っていたのだが、スペースインベーダーが移植されヒットしたコトによって在庫処分が出来、なおかつ、パックマンが移植されたコトによって一転して驚異的なブームとなったのだという。これが、業務用ゲームから家庭用への移植の嚆矢となり(それまでは無かったのだ!)、以後、PlayStation時代までは通用した、ヒットを作るための方程式の一つとなったのは、周知の通り。

つまり。我々が常識だと思っているコトですら、ア・プリオリに存在していたワケでなく、ゲーム史上、誰かが「発明・発見」したコトなのだ(しかもそれほど古いコトではない)。前回のエントリーで「断片的な知識のそれぞれが、ビデオゲームの歴史にルーツを持って対応・符号しているのを、本書では新たに発見させてくれる」と書いたのは、まさにこういった類の話のコトで、ゲーム業界で行われている「慣習的な選択」は、大抵、過去にそのルーツを見出すコトが出来るのだ(と思う)。

んでもって、VCSの話には続きがある。アタリは業務用でヒットを連発し、VCSも業務用の移植で軌道に乗ったのにもかかわらず、親会社のワーナーは業務用部門のクリエイティヴィティを評価せず(むしろないがしろにし)、家庭用「ビジネス」にばかり注力したのだという。直接的な原因ではないにせよ、そうした方針が、いわゆるアタリショックの遠因になったと云っていいだろう。

鶴見はココに、昨今の業務用ゲームの衰退および、巷間で呟かれる「ゲームがつまらなくなったよね論」のルーツまで見出してしまうのだが…暴論だろうか?

鶴見が云いたいのは、ひとつには、アタリの事例はまるで、セガが家庭用コンソール事業に注力するあまり業績を悪化させた経緯とソックリだというコトであり、いまひとつは「業務用を軽視してビデオゲームにエポックが生まれるのか?」というコトだ。

鶴見がセガに入社した頃はセガも業績が良く、研究開発費も潤沢だった。ペーペーで無駄飯喰らいの我々などは「給料を貰って修行させてもらっていた」ような側面があったと思う(ここで水口あたりはうなずくべきだな)。そう、いわゆる「大鳥居ゲーム専門学校」というヤツだ。以前の嘘六百でも書いたが、セガが行った開発者への投資は、ことセガに留まらず、大量の開発者を手放す羽目になった後に、ゲーム業界全体の開発力を大きく底上げしたと断言して良かろう(ちなみにアタリも、ゲーム業界の黎明期を創り出した才能溢れるスタッフ「アタリアン」達を手放し、散らばったアタリアン達は米ゲーム業界の隆盛に一役買ったという。やはりソックリだ)。

しかし、家庭用プラットフォーム戦争に費やされた金は違う。広告業界や秋元康なんぞを潤し、湯川専務の知名度は上げたかもしれないが、(それらも含めて)大半は消耗戦の為に費やされた。ゲームとして結実したモノも多いとはいえ、掛けられた金額に比べればあまりにも少ない。もちろんその間、業務用の研究開発費(の割合)は抑えられ、業務用部署のタレントはシェンムー(これも消耗戦だな)に徴兵された。

もちろんこちらも、話はセガ一社に留まらない。セガは業務用ゲーム機開発の最大手であり、セガが業務用の研究開発費を抑えるというコトは、業界全体で業務用ゲーム開発に費やされる金額自体が低くなるコトを意味する。その影響は大きい。村上龍の「あの金で何が買えるか」ではないが、セガがもし、業務用に変わらぬ(割合の)投資を続けていたなら、業務用ゲームそのものがここまで衰退していなかったのではないか。今とは違ったゲームセンターが隆盛を誇っていたのではないか。過去にUFOキャッチャーが、あるいはプリクラが、ゲームセンターの風景を一変させたように。

NAOMI基板の話を持ち出す人間もいるだろう。「業務用の開発費は減ってなんかいませんでしたよ。共用により合理化しただけです」と。そこで二つめの、鶴見が十年来抱いている疑問が首をもたげるのだ――「業務用を軽視してビデオゲームにエポックが生まれるのか?」と。

(続く)

【追記】

ところで、「それポン」を読み了えるのに1週間もかかったのは、読みたかった本を数冊、並行して読んでいたためだ。ちなみに並行して読んでいた(いる)のは、『パックマンのゲーム学入門』(岩谷徹)『涼しい脳味噌』(養老孟司)『冒険手帳』(谷口尚規/石川球太)『近代 日本語の思想』(柳父章)『パチンコ「30兆円の闇」』(溝口敦)『火星年代記』(R Bradbury)、等々。『テヅカ・イズ・デッド』(伊藤剛)はまだ読み始めていない。

tsurumy at 17:50 | リンク | コメント (4) | トラックバック (2)

2005年09月14日

ロケーションフリー据置ゲーム機のコト

物欲にあまり振り回されなくなった鶴見ではあるけれど、ちと欲しいモノが1つある。

今度発売になる、ソニーの「お持ちのパソコンがテレビになる」ロケーションフリーテレビってヤツだ。以前あった(今もあるけど)「エアボード」のモニター部分として、インターネットに接続したパソコンが使えるとの由。

それなら、無線LANでインターネットにつながるPSPをモニターにしてもいいんじゃないの? …と思ったら、今年のCESで、既に発表になってるのね。

2005 International CES レポート(Impress AV Watch)

さらにPSP版ソフト「Location Free Player for PSP」の開発も進んでおり、春以降の発売を予定しているという。こちらも価格は未定。ソフトはPSP用メディアの「UMD」もしくはメモリーステックDuoのいずれかで提供予定だが、まだ決まっていないという。


ならば…昔の嘘六百で書いたが、自宅の「ベースステーション」(自宅に置くチューナー+ストリーミングエンコーダー)にPS2を接続すれば、出先のPSPから、自宅のPS2ソフトを遠隔操作で遊ぶってアイデアが実現できるじゃん!

嘘六百・第45回/「新ハード」(3)

液晶表示部からベース部の汎用赤外線リモコンを操作できるので、もし、この汎用赤外線リモコンがPS2(に限らず、接続されたゲーム機)のコントローラを操作できるのであれば、マジで携帯ゲーム機の出来上がりだ。リアルタイムゲームには向いてないけど、RPGなんかだったら全然OK。PS2のPS互換どころではなく、既にソフト資産が蓄積されている超メリット。それどころか、GCだってXBOXだって遊べちゃうヨ!

マジでホリ電機あたりに、ベースステーションとゲーム機(PS2に限らず)を接続するコントローラを作って欲しいね。そうすれば、北斗の拳ポータブル専用機と化しているウチのPSPに、やっと別の用途が生まれるぜ!(笑

【追記】
ご存知の向きもあるだろうが、SCEAのCTO・茶谷さんを出願者とした米国特許も同様の着想に基づいているワケだし、たしかPSMかEGMに「PS3は、PSPと上記のような方法で連動する」という記事もあったように記憶している。PS3とPSPがインターネットを介して連動するのは、どうやら(世間では)既定事項扱いらしい。

でもさ、どうせやるんだったら、可能な限りオープンな形にしてほしいよね。

ベストな形は、「据置ゲーム機を選ばない」方法。PSP側のキー入力が、そのままベースステーションのIOに吐き出される仕組みさえ作っちゃえば、あとはホリ電気さんが(笑)、対応コントローラを作ってくれるでしょう。そうすれば、本文にも書いたけど、それこそレボリューションだろうがXBOX360だろうが、外出先のPSPで遊べちゃうってワケだ。

それがダメでも、せめてPS3&PSPの標準機能として欲しい。PS3側は、通常のTV出力を送出(もちろん、PS3のソフト側で、PSP表示に最適化した映像を送る自由度は持たせる)。PSP側はファームウェア・アップデートで対応。PSPのMACアドレスをPS3に登録しさえすれば、どんなソフトでも、どこからでも、PSPからアクセス出来る、と。

最悪なのは、それをゲームソフト(つまり俺らに)全部やらせるやり方。PS3に対応ソフトを入れて、PSPに専用UMDを入れて…なんてのは、ソフトの商品企画として成り立たない(=誰も開発しない)ので、やめていただきたい。

(誰に向かって云ってるんだか…)

tsurumy at 08:24 | リンク | コメント (4) | トラックバック (1)

2005年06月17日

「CEROに任セロ!」なCMソングのコト

というワケで、「誤解されてるなあCERO…」のコトで予告した通り、「CEROに任セロ!」なCMソングを作ってしまった。

「CEROに任セロ!」(cero_song.mp3 - 848KB)

可愛い孫への プレゼント
ゲームソフトを 買いに来た
はてさてどれが いいのやら
エロやグロでは 困ります
そんな時こそ CEROに任セロ
安心指針の レーティング


ううむ、CEROのポジションとレーティングの意味づけとを、日常の一コマで切り取った、見事な歌であるなあ。

聴けば判るがコレ、実は「くまうた」で作成した演歌だ。唄っているのは、ウチの20年選手・コモエスタベア三(総売上9000万本超)。「くまうた」で作った歌は、本来「.ENKA」ファイルという形式でやりとり出来るのだが(PCで聴くためには無料の「くまうたビューアー」が必要)、PS2のBBユニットが無いとPS2の外に送れないので、今回はMP3とさせていただいた。鶴見はBBユニットを持っていないのだ。

ホントはこの曲をベースに、ムービーを作りたかったのだが、本業が忙しくてそれどころじゃありませんっ! ムービー作成ソフトはいつでも立ち上がっているんだけどね。コンテまで描いたんだけどね。


つうか、この歌を公開するのって、SCEJの許可を取らないとまずかったりするのか、ひょっとして?(←当然!) …明日、山元さんか誰かに訊いてみよう。

「くまうた」 © Sony Computer Entertainment Inc. (←申し訳程度に)


【追記6月17日】
エグゼクティヴ・プロデューサーの山元さん&藤澤さんから「問題なかろう」との言質をいただいた。

tsurumy at 00:44 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年06月12日

「誤解されてるなあCERO…」のコト

昨日書いた「頑張れCERO!」のコトに対してお二人ほどがコメントされているが、そのお二方ともがCEROの位置付けについて誤解されているのは興味深い。

CEROは業界を(流通を)規制する団体ではない。

自主規制の主体ですらない。むしろ、「我々メーカー・流通が規制しますから、その基準を作ってください」と、依頼される側にすぎない。昨日も書いたが、CEROはゲームの内容を「rating(評定)する」ただそれだけの第三者機関なので、それをどのように活用するかは、あくまでメーカー・流通の責任なのだ。

例えばアメリカでは、TargetToys'R'usなどの超大手流通は、ESRBのレーティングによってソフトの扱いを極端に区別する。発注数にも影響があるし、店頭でのPOPの扱いだって異なる。ラチェットでは、銃口を向けたPOPはToys'R'usには置かれなかったと記憶している。まあ実際には、それほど厳密なものでないのだが(Toys'R'usでGTAも売ってるし)、少なくとも、行政の介入を阻止出来るだけの「問題の起きない方法」を採っているコトは確かだ。

なので、メーカーも表現に気を遣う。表現の自由が阻害される、という意味ではない。自分らの表現が、それに相応しい消費者に届くように、気を遣うワケだ。

もちろん、アメリカの状況だって最初からそうだったワケではないと思う。ESRB設立から11年余の間に紆余曲折を経て、業界全体にそうしたコンセンサスが定着していったのだろう。


それにしても――WEB上の言論を眺めると、CEROについて誤った思い込みに基づいた書き込みをしている人間があまりにも多いコトに気づかされる。先にコメントをくれたお二人も含めて、ゲームに詳しい人間からしてそうなのだから、社会的には何をかいわんや、だ。認知されてナンボのCEROが、いかに認知されていないかというコトだ。

願わくば、今回の神奈川県の措置を契機に、メーカー・流通側の対応が進み…同時にCEROに対する社会的な認知が上がれば良いのだが。法的な基準ではない(云ってしまえば勝手に云ってるだけの)CEROのレーティングが、社会の「デファクト・スタンダード」として認知されるように。

そのための手始めとしてまず、不明確な基準で規制を進めようとしている神奈川県に対して、CEROのレーティングを基準とするような働きかけを、業界一丸となって行う必要があるだろう(神奈川県は、CEROの介入を不自然なまでに拒んでいるようだが)。


昨日に引き続き…

超がんばれCERO!

【追記】
とはいえ、だ。CEROの事業内容として、ゲームソフトの年齢別レーティング制度普及啓発事業と謳われているんだから、もっともっと普及啓発を行わなければならんよなあ。新聞広告とか雑誌広告とか、「JAROって何じゃろ?」に倣って、

「CEROにまかセロ!」


なCMとか。ダメですかそうですか。

販売の現場で、レーティングがどのように扱われているかを調査・公表するコトなんかは、CEROの業務範囲だと思うのだが如何に。いや別にCESAがやってもいいんだけど。


【追々記】
ちなみに、CEROが第三者機関である必要性については、こちら→「自主規制の果てに残るものは」(Cepter's Inn.)をご覧いただきたい。

では、似たような事例としてソフ倫はどうであったのか?(中略)これには理事になったメーカーの専横による審査の不公正、審査基準への不満等が原因とも。何せメーカー同士で審査をするのだから、そこに透明性が確立されるのは難しい。理事メーカーのソフトに対して規制が甘いなどと話題になったことも。

そりゃそうだよなあ…。


【追々々記】
CESAが、「ゲームソフトの販売自粛について」と題したプレスリリースを出している。

「自粛」じゃねえだろ、「自粛」じゃ。

云うまでもなく「自粛」という言葉には、行いや態度を慎むという意味がある。これではまるで、今まで好き勝手・野放図にやって来たように(対外的には)見えるじゃないか。今必要なのは、慎むなんていう消極的態度ではなく、ゲーム業界の取り組みを世間に認知して貰うべく発信するという積極的態度ではないのか。表題を付けるのなら、「ゲームソフト販売自主規制の取り組みについて」とか、百歩譲っても、「ゲームソフトの販売自主規制について」だろう。その方が、「自粛」よりは、世間に対して僅かでもポジティヴなイメージを与えられるだろうし、何よりリリース文の内容を正確に表しているはずだ。

あと、考えすぎなのかもしらんが、辻本憲三カプコン社長名義で、有害図書指定についての声明を出している一方で、同じく辻本憲三CESA会長名義で「自粛」じゃあ、世間には一個人の牛耳る業界の「戯言」だと受け取られはすまいか。鶴見的にはそれが心配だ。

アメリカのESRBやその母体であるIDSAなどは、ゲーム業界とは関係のない人間(むしろ政治的ロビー活動が得意な人間)が会長職に就き、組織の顔として活動している。組織の社会的な公正さを担保している(ように見える)上手い人事だと云えよう。見習ってもいいよね。

tsurumy at 23:05 | リンク | コメント (5) | トラックバック (3)

2005年06月11日

「頑張れCERO!」のコト

神奈川県、残虐ゲーム「有害」に(日経新聞5月30日付)

神奈川県は三十日、カプコン(大阪市)が販売するソフトを有害図書類に指定し、十八歳未満の青少年への販売を禁じる方針を固めた。ゲームソフトが有害図書類に指定されるのは国内初。業界にはこれまでの自主規制の甘さを指摘する声もある。
ゲーム業界では業界団体のコンピュータエンターテインメント協会(CESA)が主導して、評価機関を設立。内容により「十八歳以上」とするなどの自主的な審査制度を導入している。ただ、同制度はソフトのパッケージに注意書きを記載する程度。一部ゲームメーカーの間では「店頭販売のあり方についても自主規制を整備する必要がある」との指摘もある。


3月3日のエントリーでも書いたが、鶴見はゲームを「有害」扱いするような思考停止的なレッテル貼りには強い不快感を覚えるが、とはいえ、「成人向け」の商品が成人以外の目に触れないような社会環境の整備は、あって当然だと考える。

そういう意味では今回の神奈川の条例も、条例自体と運営方法と審査の不明確さには到底納得出来ないものの(参考→有害ゲーム定例記者会見の疑問点 (はえのおう))、自主規制の甘かったゲーム業界の重い腰を動かす外圧、いわば「青天の霹靂」としての価値はあったのかなあ、と思っている。事ある毎に書いているが、日本社会の中で認知は高いが地位は低いビデオゲームを、産業規模相応の地位に引き上げるためには、社会との軋轢を一つ一つ丁寧に取り除いていかなければならないのだから。


で、CERO(コンピュータエンターテインメントレーティング機構)だ。

今回の神奈川の措置に関するWEB上の言論を眺めると、CEROの無力さを非難する書き込みが散見されるばかりか、CEROをゲーム業界の癌呼ばわりするトンデモ発言まで大手サイトから飛び出しているのだから、呆れてしまう。


有害図書類指定にカプコンが反論、SCEIが独自の動きに、コナミは反発必至か!?(まこなこ)

CEROが無ければソニーコンピュータエンタテインメントなり任天堂なりがしっかりと基準を作り、問題のあるソフトの分別販売などが可能なんだろうけど。ほんと、CEROがゲーム業界の癌ですな。


もちろん、呆れているのはCEROに対してではなく、こうした無定見な暴言に対してだ。

CERO設立に当たって行われた、ゲームソフトにおけるレーティングシステム構築のための調査や、「ゲームの社会的受容の研究―世界各国におけるレーティングの実際」(白鳥令/東海大学出版会)のどちらかを読めば解るのだが、「レーティング」というのは、社会との摩擦を避けるために、社会に対して発信されるべきものであり、社会に対しての公正さを担保するためにも

設立された審査機関に対しては(中略)決してエンターテインメントゲームソフトウエア業界の立場からは影響を行使しないという自制的態度によって示されるのだといえよう。(ゲームソフトにおけるレーティングシステム構築のための調査より)

――と、第三者機関によって行われるべきなのだ。そして実際、CEROは(そしてESRBも)そうなっている。例えCEROのレーティングが、ゲームプレイヤーの立場からは納得しづらいものであったとしても、社会の目を基準に公正さを発信する責を負っているのだから、そこに文句を云うのはお門違いだ。むしろ、そうした情報を有効活用していなかった流通側に問題があったと云えるだろう。CEROの責任ではない。


CEROの「レーティング」とは…

例えば自分でゲームを遊ぶ親御さん(→こちらのような方)にとって、今回の「GTA3」が、子供に遊ばせるのにはチョイ早いゲームだというコトは、もう当然が無論の常識だ。

だが、大半の親御さんにとっては(そして鶴見が個人的に飲み屋でよく会う小学校の先生達にとっても)、そうではない。ゲームというのは、子供を惹き付けるハーメルンの笛吹のように、得体が知れないモノなのだ(だから、「ゲーム脳」とかのトンデモ論にも飛びついてしまう)。そして、そんなゲームを知らない親御さんにも、ゲームsavvyな親御さんが気づく程度の知識――「GTA3は、子供に遊ばせるにはチョイ早いゲームだよ」、そんな情報を与えるのがレーティングなのだ。

今回、CEROレーティングの基準自体をウンヌンする発言も多数見受けられたが、ゲームってのは社会にとっては依然として「得体の知れないモノ」なのだから、基準が厳しくなるのは当然かな、と思っている。もちろん、レーティングは社会通念をベースに基準が決められているはずなので、ゲームが社会的に認知されてゆく過程で、納得性の高い形に改められていくだろう。


なんにせよ、日本のレーティング制度は2002年に立ち上がったばかりで、まだまだ「途上」だ。漫画ジャンルで云えば、手塚治虫が「やけっぱちのマリア」で「俗悪」の烙印を押されていた頃に相当するだろうか。つまり、ゲームの進化に社会的な認知が追いついていない状況だ。以前の嘘六百にも書いたが

何にせよ、レーティング制度は一般社会に認知されなければ効力はありません。ESRBは、ほぼ10年近くかけてやっと成熟し「バイオレンス」というジャンルを売り上げランキングのトップに送り出しました。しかし日本のレーティング制度は始まったばかりです。

今回のような事例を幾多経て、2012年頃には、ゲームの地位も向上し、ゲーム表現の自由度も確保されていると信じたい。そのためにも…

頑張れCERO!

【追記】
なんとはなしに、松沢神奈川県知事のブログにトラックバックを打っておく。

tsurumy at 11:13 | リンク | コメント (4) | トラックバック (2)

2005年05月23日

印象操作されてるなあ、という印象のコト

エピソード3のコトでアタマが茹だってしまっている鶴見だが、そんな隙を狙われたのか、コメント欄に鶴見をGK呼ばわりする複数の投稿があった(ので、ソク削除した)。どうやら、SCEA社長・平井さんの「PSP130万台超」発言を掲載したコトを以て、GK=ソニー工作員扱いされたようだ。なんだかなあ。

ログと書き込み時間を照らし合わせると、どうやら発熱地帯からリンクを辿って来た人間らしい(書き込み内容もそうだった)。DAKINI氏の見方は確かに一つの見方だが、それに反したE3の印象全てが「GK」の名の下に封殺されてしまうのだとしたら…そしてこんな辺境ブログにまで飛び火するのだとしたら、「DAKINI信者」も罪が深い。

もっとも、「PSPの試遊台にはほとんど人がついていなかった」といった、DAKINI氏の恣意的なサンプリングによる記述は、正直どうかとは思うのだが。もちろん、勢いのあるDSとは比ぶべくもないのだが、どこぞのサードパーティのショボいPSPソフトの展示ならいざ知らず、SCEAブースではごく普通に人がついていたはずだ。ましてや、インプレスの紹介記事で、任天堂は人だかりの写真が掲載されているが、SCEAはスクリーンショットのみといった例を挙げ、あたかもSCEAブースに客が付いていなかったかのように暗示するのは、さすがに印象操作の誹りを免れないだろう。

で、E3に行っていないDAKINI信者が、それのみを根拠に、鶴見をGK呼ばわりすると。なんだかなあ。


鶴見は基本的にはフリーランスなワケだし、SCEJの仕事をしているとは云え、他にもマルチプラットフォーム路線のソフトメーカーとも機密保持契約を結んでいたりする。売れているプラットフォーム上で面白いソフトを作る仕事が出来ればいいや、という人種だ。ロイヤルティ(忠誠心の方ね)の向かう先は、SCEというより、ゲーム業界自体なのだ。この辺り、DAKINI氏が自分の立場とは関係なくゲーム業界を俯瞰して発熱地帯のようなサイトを立ち上げているのと、軌を一にしている。

そうした身からすれば、「平井さんが(SCEAが)PSPを成功させようと、日本以上の戦略を打っており、一定の成果を上げている」というのは、ゲーム業界にとってプラスであり、大いに採り上げたいトピックだ(なので書いた)。日本でも、大いに見習ってほしいぐらいだ(誰に?)。

それを、競争による切磋琢磨ならぬ、戦争による敗者殲滅的な、ゲーム業界にとって極めてネガティヴな捉え方をする人間は…ホントにゲーム好きなのかなあ?業界のコトを考えているのかなあ?と疑問に思ってしまう。なんだかなあ。

【追記5月29日】
もうね、鶴見は呆れまくっちまったのだよ。自分だけの「正義」で物事を解釈し、その「正義」を行使する場所を、よりにもよって匿名掲示板に求めるような、そんな「正義漢」どもに。

そんな「見たい物しか見ない」方々のために、文章の一部を解りやすく修正した。オノレの独善的な「正義」の根拠をお失い下さいませ。

tsurumy at 14:08 | リンク | コメント (6) | トラックバック (1)

2005年03月26日

音相とOnsonicとネーミングのコト

鶴見とは「地声がデカい仲間」であるIGDA小野さんに以前教えてもらったのだが、「音相」を研究する音相システム研究所という会社があるのだそうな。

「音相」とは聞き慣れない言葉だが、かの研究所に曰く、

音相とは何か?~音がつくる表情は、意味に劣らぬ働きをしていますが(中略)ことばを印象深く大衆に伝えるには、意味だけでなく音が伝えるイメージの研究が重要であることに気づいたのが始まりでした。

確かに、一般的に「G」「Z」音は強さ、「S」「K」音はスマートさ、といったような、音には固有のイメージがあるとされている(実感としてもそうだ)。だが「音相理論」ではそこから一歩踏みだし――

(今までの)理論が、複雑な仕組みでできる音の表情を(中略)音響的には極めてラフな、「音節」の単位 でしか捉えていないことに理由があるのです。さまざまな要素が複雑に絡んでできていることばの表情は、音節を成り立たせているもう一段奥の単位で捉えなければならないのです。

解りやすく云えば、音節よりも細かい単位で音の「表情」を捉え(音相基)、さらには、既存の単語の「意味」と「音」の統計を採った(音用慣習)というコトだ。これらの要素をコンピュータにぶち込んだので、音の持つイメージを、客観的・定量的に解析出来るのだという。

つまり、「ネーミング」を評価する上で役に立つ理論だというワケだ。

百聞は一見に如かず。上記サイトにあるOnsonic体験版というCGIで、お試し音相解析をやってみよう。

「ラチェット」
活性的・動的: 90.0
爽やかさ・清らかさ: 87.5
現実的・合理的: 80.0
庶民的・適応性: 50.0
軽快感・軽やかさ: 40.9
都会的・現代的: 40.0
(以下、略)

なるほど、「ラチェット」はアクティヴで爽やかで現実的なイメージを醸し出すワードなのか(笑)――って、笑ってちゃイカンな。自分らがラチェットに託しているイメージと、大きくかけ離れていないコトを喜ばねば。なにしろ、音相理論に曰く、

ことばのもつ意味と、音が作るイメージが、一つの像に重なると、イメ-ジの輪郭がより明白になって印象鮮明な記憶に残ることばになる

と云うのだから。

当初、InsomniacおよびSCEアメリカから「新シリーズのタイトルを『Ratchet & Clank』にしたい」と提案された時、鶴見としては「日本向けに改変を行う前提」で同意したように記憶している。というのは、「ラチェット」という名前には「強さ」が欠けているように思えたし、加えて、「&(アンド)」という余計なワードがあったためだ。

そこで鶴見がまず考えたのは、「ラチェット・クランク」+「サブタイトル」という形だ。


ちと話題は逸れるが、鶴見式ネーミング作法によれば、ネーミングは「引っ掛かってナンボ」。先行の「Jak and Daxter」を「ジャック×ダクスター(じゃっくんだくすたー)」と呼称したのも、バタ臭さを消して「日本語的に」語呂を良くするのとともに、何らかの――見聞きした人間の脳に引っ掛かるような、そんな「?」を作りたかったのだ。まあ、ジャックに関しては賛否両論あったけれど(「ジャックソ」とも呼ばれたけど)、「ジャック」という極めて一般的な男性名に独自性を加えたという点では、これも「アリ」だったと思っている。

更に逸れるが、鶴見式ネーミング作法では、次の2点を重視する。


  • 「!」な語句+「?」な語句のコンビネーション

  • 日本語的な音節の連なり


具体的には、「クラッシュ・バンディクー」を思い起こしてもらいたい(鶴見の命名ではないけれど)。

前者に関して云うならば、「クラッシュ」という、一般名詞的でイメージの伝わりやすい単語が、即ち「!」だ。それに加えて、「バンディクー」という、初めて聞くような「?」な単語とのコンビネーション。実際、「バンディクー」という言葉を間違えて覚えるユーザーは数多く、「バンディグー」だの「バンデブー」だの「バンディーク」だの「ヴァンダイク」だの、ありとあらゆる間違い方をされたものだ――が、それこそが「フック」であり「独自性」だったのだと考える。聞いた人間の脳味噌には他者と混同されるコトなく刻み込まれたのだ。たとえ間違った形であろうとも。

後者に関しては説明が難しいのだが…一口に云うならば、チョムスキー辺りの言語論で謂うトコロの「偶然の空白」というヤツか(調べるべし)。日本語っぽく聞こえるはするけれど、たまたま日本語ではない言葉――つまり「空耳日本語」だ。

言葉は、視覚だけでは記憶されにくいが、発音を伴うと容易に記憶され得る(また、言の葉に上れば口伝えで伝播されやすい)。前項の「?」な言葉に関して云えば、ただ日本語に存在しない言葉を持ってきても、それは単に「理解不能」「記憶不能」というラベルを付けられて脳内をスルーされてしまうだろう。発音可能な言葉であった方が、記憶されやすいのは理の当然だ。その上で、口に出すと漂う違和感、これだ。「バンディクー」という言葉などは、「万事休す」と駄洒落で置き換えられるぐらい「日本語に前例のある音節の連なり」であり(まあ微妙だが)、聞いた人間はなんだか意味まで了解したつもりになれるのだが、実は収め所なく脳内を漂うからこそ、「?」足り得るのだ。

ちと補足しておくと、ここで云う「日本語的」とは、純然たる日本語を意味しない。ターゲットユーザー層の間で流通している言葉ならば良いのだ。例えば、「ロックンロール(Rock'n'Roll)」という言葉だって、鶴見的には「日本語」だ。それ故の、「ジャック×ダクスター(Jak'n'Daxter)」なのだ。


で、話をラチェットに戻すと、「Ratchet & Clank」という言葉をそのまま日本語読みした場合、「!」はあれども強くなく、「?」はあるようなないような(という時点で無いも同然なのだが)、というのが鶴見の評だったワケだ。有り体に云って、引っ掛かり無くスルーされそうなネーミング。そこで、、「『強さ』『勢い』イメージの強化」「独自イメージの付加」を意図して、先の「ラチェット・クランク」+「サブタイトル」という形を考えたのだ。

まあ実際には、久夛良木社長の意向により、英語表記ほぼそのままの形で世に出すコトになったのだが、上記のネーミングに対する考えが、久夛良木社長の目が届かなくなった2作目以降で日の目を見るコトになったのは、周知の通り。そう、「ガガガ銀河」というワードがそれだ。勢い+独自性+引っ掛かりの3連コンボは、ラチェット世界が持つ「色」を強調出来たのではないかな、と、自画自賛する鶴見である。

3作目では、当初「ゲバゲバ銀河」というワードを盛り込もうとしたのだが、「それはやり過ぎだ」との声が多く、却下となっていたりするが(笑)。

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2005年03月18日

子供にゲームをさせよ論のコト(予告)

宴の後よろしく、GDCが終わってからすっかり呆けている鶴見だが(呆けている場合じゃないんだが)、資料を整理していたら、GDCがらみでひとつ書き忘れたコトがあったのを思い出した。

「子供はゲームをしないほうがいい」? 高橋氏のユニークなゲーム観(Game Watch)

講演の中で高橋氏は、自らが持つゲーム観をいくつか語っている。(中略)特に子供がゲームをすることに対しては、「外で友達と元気に遊ぶほうがいい。ゲームなんて大人になってもできるし、時間がもったいない」という。

異論を唱えたい。

鶴見のスタンスは全く逆で、むしろ子供にこそ、良質なゲーム体験をして欲しいという信念を持っている。「子供にゲームをさせよ」だ。その信念は、ここ10年子供向けゲームに関わり続けたコトによって培われたモノだ。今や、誇りを持って「子供向け」「全年齢向け」ゲームに携わっている。

もちろんソレは、ESRBの全年齢向け「Everyone」レーティングがしばしば「お子ちゃま向け」と揶揄されるような意味での、「子供騙し」というコトではない。鶴見はアレだからして(笑)、子供向けとは云え、毒にも薬にもならないモノなんざ願い下げだ。むしろ毒。世間に蔓延する毒を、悪意を、狂気を――子供にも解る形でのエンターテインメント創作物として昇華させるコトこそが我が天職、という意識でやっている。

以前、どこかで書いたかもしれないが、鶴見的にはむしろ大人向けと称するゲームにこそ、「大人騙し」なゲームが多いような気さえする。思春期以降の性欲衝動につけ込むような、お手軽欲望充足型エロゲ商品なぞは、その最たるモノだ。褒賞の価値が大きいので、広義のゲーム性という意味では成立しているが、狭義の「ゲーム性」、即ちゲームをゲーム足らしめている要素という観点では、シロウト仕事が大半であるように鶴見には見受けられる(ただし、それらの商品を否定する意図はない。為念)。

鶴見の云う「子供向け」とは、大人のピンポイントな嗜好にオモネらない、万人向けのゲームを目指しているという意味だ。ここで、水口上手いコトを云っているので、引用してみよう(from 羨望は無知)。

欲求には二種類ある。先天的欲求と後天的欲求である。前者は生理的・原始的なものであり(中略)これは文化や言葉に左右されないプリミティブなものである。後者は大人になるにつれ出来てくる個人的嗜好である。(中略)子供は先天的欲求の影響が大きく、後天的欲求が少ないために、ポケモンはディテールがたとえ日本的なものであっても気にせず世界中で受け入れられる。大人になるにつれ後天的欲求つまり個人的嗜好の影響が大きくなり、~じゃなければ、とか、やっぱり~だよね、と言い始めるようになる。

水口はGDCでも同じようなコトを喋っていたが、まさに我が意を得たり、だ。鶴見も日頃、同じコトを叫んでいるのだが、水口の云い方は非常に説得力があるので今度から使わせて貰おう(笑

鶴見の実感として、歳のいった人間ほど嗜好がピンポイント的に狭い。「面白いゲームを」と云っている割りに、自分の狭い嗜好にピンポイントで合わせたモノしか評価しないのだ。いやまあ、そのコト自体は当然の話なのだが、例えばキャラクターデザインが僅かに好みに合わないだけで、平気で「クソゲー」呼ばわりするのは如何なものか。つうかやめろ。ラチェットを「キャラがキモい」「マユゲがキモい」と云い、「こんなの子供には絶対にウケない」などと、勝手な思い込みを2ちゃんに排泄する。だがそれは、全く勝手な思い込みからなる誹謗の類だ。

実際、水口の弁を引くまでもなく、子供ほどキャラクターを受容する範囲が広いのは間違いない。押しも押されもせぬ大看板キャラクターである「仮面ライダー」でさえ、発表当時の大人の見方としては、賛否両論「キモかった」のだ。だが、子供には圧倒的に受け入れられ、今やスタンダードと化した。日本のキャラクター世界の裾野を広げて来たのは、紛れもなく、子供向けのアグレッシヴなキャラクター達なのだ。

いやだからこそ「嗜好の狭い大人にもウケるキャラクター」の方が普遍性が高い、という論もあろう。ラチェットよりもクラッシュ・バンディクーの方が、素性としては普遍的なのではないかと問われたら、確かにそうだと答えるかもしれない。しかし、片やソニック・ザ・ヘッジホッグなどを眺めると、適切なインキュベーションが継続的に行われなかったために、キャラクターの魅力を大きく減じているように見える。「氏より育ち」なのだ。

えーと。

話がキャラクター方面に偏ってしまった上に、まだまだ長くなりそうな気がするので、本題である「子供にゲームをさせよ」については、また後ほど。

【追記】
「子供ほどキャラクターを受容する範囲が広い」についての補足。

もちろん生まれたての赤ん坊であっても、無制限にキャラクターを受け入れるワケではない。自分の身に危険をもたらすようなモノ(特に顔)に対しては、大脳辺縁体~扁桃体の本能的な記憶によってア・プリオリに、不快感を示すようになっている(怖いモノを好むコトが出来るのは、大人の能力だ)。もちろん逆に、「本能的に好ましい」モノもある。ただ、その認識のメカニズムはディテールの判断を含まないので、やはり子供の方が「受容する範囲が広い」のだ。

【追々記】
「羨望は無知」を「羨望と無知」と誤記してしまっていたので、訂正。申し訳なし。

tsurumy at 10:31 | リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年03月03日

杜撰な審査で有害図書指定ってどういうコト!?

ゲームも有害図書指定されちゃうコトの続きを、追記ではなく、別エントリーで書きたい。この件について調べていたところ、驚くべき内容が判明したのだ。

残虐ゲームを有害図書類指定に/神奈川県(神奈川新聞社)

県が選定した複数のソフトを五月の児童福祉審議会・社会環境部会(部会長・上田滋県少年補導員連絡協議会会長)で審査し、松沢成文知事が個別に有害指定する。(中略)同課は「当面は『バイオハザード』のように、人気があって手に入りやすいソフトが指定対象の候補になる」と話している。ただ、詳細な指定条件はなく、「審議会の委員に委ねることになる」のが実情。青少年課は「暗中模索でとにかく試してみようということ」と説明している。五月の審議会では、委員の前で実際にゲームを行い、個別指定するかどうか判断を仰ぐ。

もう、ツッコミどころ満載で、どこから指摘すれば良いのやら。元記事を読む限りでは、まったく杜撰な審査だとしか云いようがない

そもそも、神奈川県児童福祉審議会は、ゲームを審査するに相応しいシステムを持っていないだろう。確かに、CEROのレーティング審査でも、審査員は一般から募集で集まった方々だ。だが、その審査はCERO倫理規定に基づいて行われている。倫理規定はもちろん、社会通念を考慮し、有識者を交え、十分な検討を経て作成されたモノだ。「倫理規定+一般人の審査」は世界的にもベストなメソッドだと考えられている。それを神奈川県は、詳細な指定条件無しで、審議委員という半可通が(云ってしまえば「恣意的に」)審査すると云う。正当と認められている審査方法からは懸け離れた、著しく公正に欠くやり方だと云えよう。

審査材料だってそうだ。CEROの審査の際に、我々はシナリオや映像のビデオを提出する。ゲーム全体を公正に審査して欲しいからだ。だが神奈川県では「委員の前で実際にゲームを行い」と、ゲームメーカー側の協力を得ないコトを前提としている。それでは、ゲームの極一部しか分からないだろう。つまり委員は、ゲームの極一部を見ただけで、そのゲームソフトが子供に与える影響を「推測」するしかない。そんなコトが正確な審査が出来るのか。

だいたいだ。一部の人気のあるゲームソフトのみを槍玉に挙げるのでは、実効性はないに等しい。というのも、人気のあるソフトは通常、社会的影響に配慮して、そう過激な表現は行わない(行えない)ものだからだ。名前の挙がっている『バイオハザード』なんかは、その最たるモノだ。かなりの葛藤の跡が見えるぞ(笑)。いやまあとにかく、過激な表現はむしろ、限られたユーザー向けのディープな作品、あるいは後発の作品に多い。ってのは云い過ぎだが、何にせよ、審査は網羅的に行わなければならないのではないか。

ましてや、「暗中模索でとにかく試してみようということ」この考え自体が、杜撰の誹りを免れまい。せっかく、CEROという特定非営利活動法人が、審査の公正さを保つためにCESAともゲームメーカーとも繋がらない「第3者機関」として存在するのに、

ゲームソフトは現在、「全年齢」「十二歳以上」「十五歳以上」「十八歳以上」の四種類の年齢区分マークがパッケージに表示されている。ただ、業界の自主規制で購入の目安にすぎず、「店頭でも区分陳列されていない」(同課)という。

としてしか捉えていないのだから、もう何をか云わんや、だ。何故、CEROのレーティングを積極的に活用しようとしないのだろう。それがいちばんの近道なのに。この分では、今回の「有害図書指定」を決めるに至った経緯も、さぞかし杜撰であったコトだろう。


重ねて云う。鶴見の考えでは、本来あるべきは、CEROによるレーティングが、メーカー・販売店の協力の下で、社会的な信頼を得るコト(そのために必要ならば「成人指定」もやむない)。家庭においても、こうしたツールを活用し、子供とゲームとの上手い付き合い方を「親自身が考える」コト。

胡散臭い条例は要らん!


以上。

【追記】
更に調査を進めたトコロ、どうやら「有害図書指定」の「個別指定」という方法が採られるらしい。(参考→「有害」規制監視隊

CEROの「18才以上推奨」を一律に指定するようなやり方を「包括指定」と云うが、個別指定ならば、包括指定よりも、より強力な規制を行うコトができるのだ。そして過去の例では、個別指定の「強力な規制」での実績に基づいて、さらに規制の範囲は広がってゆく、らしい。

杜撰どころではない。緻密な計算に基づいてCEROを無視し、ゲームバッシングが高まる気運に乗じて、ゲームに対し悪意・敵意をぶつけてきているのだ。背筋が薄ら寒くなってきた。なんだか、「人民は弱し官吏は強し」(星新一)を思い出したよ。

【つうか】
CERO頑張ってくれよ。

【追々記】
東京都千代田区が路上禁煙条例を、非民主主義的かつ世論迎合的なやり口で決めた時、鶴見は

タバコを吸わない方々も、この知恵の無い理不尽な仕組みが、いつか貴方に牙をむくと心得ておくがいい。

と書いた。今回の有害図書指定も同根だ。徐々に、徐々に、いろんなモノが、社会正義の名の下に、踏み潰されてゆく。

【追々々記】
この文章、かなりイイです→残虐ゲームもポルノも、大人が享受できる特権でいいじゃん。世間の親御さんが全て、こんなだったら良いのに(ついでに、ラチェットを遊んでくれていたら、云うコト無しだったんだけど…笑)。

tsurumy at 18:00 | リンク | コメント (3) | トラックバック (7)

ゲームも有害図書指定されちゃうコト

残虐ゲームを有害図書指定 神奈川県が全国初(excite)

神奈川県が2005年度から、殺人や暴力など残虐シーンを多く含む家庭用テレビゲームソフトを条例に基づき「有害図書類」に指定し、18歳未満の青少年への販売を禁じる方針を固めたことが2日、分かった。県によると、テレビゲームソフトを有害図書指定にするのは全国で初めてという。
神奈川県は、有害図書指定の実効性を高めるため、同じような条例がある首都圏の各自治体にも同調を呼び掛けたい考え。
同県は青少年保護育成条例と規則で殺人や暴力などを美化した描写を「有害」と定義。「図書類」にはCD-ROMなども含まれゲームソフトも該当するが、審査方法の難しさなどからこれまで指定対象になっていなかった。

この「有害図書」という思考停止的な云い方は、非常に不快だ。子供を持つ親御さんに「ゲーム=有害(な物も含まれる)」と刷り込むようなイメージ操作の匂いが感じられて、怒りすら覚える。ゲーム業界に喧嘩を売っているのか。

同じ論法ならば、例えば、鶴見の愛読書であるところの「美徳の不幸」「悪徳の栄え」(ともにマルキ・ド・サド著。渋澤達彦訳がお薦め)なども「有害図書」としなければ、辻褄が合わんだろう。無論、性や残虐さというもの自体が、人間存在そのものに内包されているワケだからして、例え子供向けには毒が強すぎるとしても、これを「有害」と呼ぶのは余りにも一面的皮相的に過ぎる。

「成人向け指定」と云うのなら、話は解る。むしろ積極的に賛成出来る。PC向けエロゲーの中には、鶴見ですら「おいおい」と思うような強姦モノとか陵辱モノなどが平然とあったりするワケだが、こういったモノはさすがに「18禁」とした方が良かろう。

18禁、即ち「レーティング」だ。

公正に行われたレーティングによって、販売規制が行われるのならば、鶴見も文句は云わない(本来は、法規制でなく、社会常識として育っていくのが望ましいのだが、日本ではそうも行くまい)。以前の嘘六百で、ゲームソフトのレーティングについて書いたコトがあるが、

例えばアダルトビデオ「AV」。AV=18禁というレーティングは、日本では子供ですら知っています。日本で広く認知されている、数少ないレーティングの一つだと云えましょう。そしてそのおかげで、少なくともビデオ映像は「性表現」という自由度を持ち得ました

とまあ、レーティングが世間に認知されるコトにより、表現の自由度が確保されるのだから、ユーザーも業界も作り手も万々歳ではないか。要は「棲み分け」により、みんなが幸せに暮らしましょう、というコトだ。まかり間違っても、大義名分を振りかざして文化を葬り去ろうとしてはならない


ただ、ここでちょっと気になるコトがある。元記事の末尾に

審査方法の難しさなどからこれまで指定対象になっていなかった。

と書かれているが、では、神奈川県は有害図書指定を行うにあたって、審査方法をどうクリアするのだろう? もちろん、予算的にも能力的にも、独自審査であろうはずがない(不十分な偏向した審査になるであろうコトは、火を見るよりも明らかだ)。やはり、CEROによるレーティングを参考にするのだろう。元記事の内容から、「18才推奨」「暴力表現」「グロテスク表現」辺りによって切り分けられると推測出来る。

だが。

CEROのレーティングでは、「18才以上推奨」はあっても、アメリカのESRBレーティングにあるような「ADULT ONLY(成人向け)」は存在しない。この辺りの荒さが気になるのだ。実際、CEROによって「18才以上推奨」とされている中には、一般社会常識に照らし合わせて「成人向け」とは云えないモノもある。最近の話題で云えば、「魔法先生ネギま!」(コナミ)は18才以上推奨だが、原作は週刊少年マガジンに掲載されているほどで、明らかに「成人向け」ではない。

お役所仕事的に行われる販売規制と、ユーザーの意識とが、あまりに懸け離れていた場合、それは有名無実となるおそれがある。そして、その根拠となったCEROのレーティングも信頼性を失うだろう。鶴見は、CEROのレーティングが世間的な信頼を得て欲しいと願っている人間なので、それをこそ、最も恐れている。だから、

CEROさん!
「成人向け」レーティングを
ぜひ設定してください!


現状、ゲームは広く認知されているものの、地位は異常に低すぎる(「ゲーム脳」叩きがその良い例だ)。レーティングが、世間・ユーザー・業界で認知されるコトによって、ゲームの地位向上が図られれば、例え神奈川県だろうが愛知県だろうが森昭雄だろうが、一方的にゲームを貶めるコトは出来なくなるだろう。そんな将来を夢見る鶴見なのである。

【追記】
健全な社会を目指して、有害図書の「撲滅」を叫ぶ方が、世間にはいるらしい。鶴見はもちろん、「棲み分け」を目指すのが、健全な社会の在り方だと思っている。為念。

【追々記】
御熊様から「ESRBの『AO』は機能していないのでは」とのコメントをいただいた。

元記事を書いた時点では、神奈川県の有害図書指定が、CEROのレーティングをベースに行われると思っていたので、ならば「成人指定」というレーティングのカテゴリーを作れば、確信的に成人指定として作られたゲーム以外を、神奈川県が勝手に有害指定するコトは出来ないだろう、と考えたのだ。なので、「CEROさん!『成人向け』レーティングを、ぜひ設定してください!」と書いたという次第。

だが、次のエントリーで書いているように、鶴見の見方はアマかった。神奈川県は、あくまで独自の判断基準で「有害」指定をしたいらしい。

tsurumy at 11:00 | リンク | コメント (8) | トラックバック (5)

2005年02月24日

ときメモOnlineが本当に出ちゃうコト

ここ数日、「ときメモ オンライン」と検索してウチのサイトを訪れる人間が異様に多い。以前の嘘六百で、

嘘六百・第36回/「オンラインゲーム」(3)
嘘六百・第37回/「オンラインゲーム」(4)

と、2回にわたって「ときメモ®オンライン試案」について書いたコトはあるものの、それとて、もう1年以上前のコトだ。何故に今更――と思って調べてみたらば、こんなものを発見した!

ときめきメモリアルOnline公式サイト(コナミ)

ありゃホントに出すのか、コナミさん。

今発表になったというコトは、嘘六百で執筆した2003年11月頃には、ちょうど企画がスタートしていた頃なんだろうな。参考にしてくれていればいいんだが(笑)。特に、鶴見が提唱したメインコンセプト

彼氏彼女を求める善男善女が、
ときメモ®世界のキャラに成りきって
相手を探す、完全出会い系ゲーム。

この辺りが実現されていれば面白いんだが(鶴見は参戦しないけど…笑)。

スクリーンショット程度しか公開されていないので、実際にどうなのかは不明。「つながる友情、つなげる愛情、ひろがる学園生活(スクールライフ)。」というメインコピーを読む限りでは、アバター付きソーシャル・ネットワーキング・サービスのようだが、だとしたら、対応機種はPCなんだろうかね(それ以外なら、即死)。メインのコミュニケーション手段は、現時点ではチャットしか見えてないけど、リアルタイムなものだけだと失敗するのは必定なので、きっと他にも、部活動やらミニコミ誌やら(笑)何やらで、世界(学園)全てに働きかけの出来る手段が用意されるのであろう。何らかのステータスアップ目的も複数用意されるのであろう。

いやいや、そんな当然のコトどもはどうでもいい。問題は

ネカマを阻止出来るかどうか

これだ! これに尽きる。これが出来れば成功するだろうし、出来なければ、何か近寄りたくない嫌なイヤぁなコミュニティに成り下がるコトであろう。

――喩えるならば、「ときメモ体操着・サイズXL」のような。

【追記】
これには笑かしてもらいました。

ここも笑かしてもらった。そうかー、男×男かー(笑

【追々記】
2月24日の段階では、「ときメモオンライン」でググると、うちのサイトがかなり上位に(場合によってはトップに!)来ていたそうだ。

2月27日現在は、1ページ目の最後から2番目。で、その下が本家本元の公式サイト(笑

tsurumy at 22:30 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年02月22日

「ゲーム脳」に反論しても恐怖は去らないというコト

森“ゲーム脳”昭雄のトンデモ説が、寝屋川の17歳少年による教員の殺人事件に絡んで、また浮上しているようだ。

「浮上」と書いたのは、ニュースメディアに大きく採り上げられておらずとも、「『ゲーム脳の恐怖』の恐怖」(ゲームの未来にとっての「恐怖」という意味だが)は、深く静かに潜行していたからだ。All Aboutのゲーム業界ニュースによれば、森昭雄は「ゲーム脳の恐怖」出版以来、各地で頻繁に講演を行っていたらしい。

曰く、「ゲーム脳とその対策~読書がなぜ良いのか」、「ゲーム脳と子供の未来」、「めざせ脱ゲーム脳~子どもにもわかる脳のはなし~」、云々。

こうして見ると、「ゲーム脳」という言葉は相当にキャッチーだというコトが判る。よくもまあ、森はこれほどナイスなネーミングをしでかしたものだ。下手なホラー映画のキャッチフレーズよりも、よほど一般に恐怖を喚起させるワードだと云える。喩えるなら、「コレステロール」とか「活性酸素」と云った健康関連ワードのようなものか。その検証結果を知らない人間ですら、「そういう物がある」「なるべくなら避けたい」と考えるだろう。人類が普遍的に持つ「死への恐怖」につけ込んだキャッチフレーズだ。それ故、真偽にかかわらず、あっという間に広がる。

そう、森昭雄の「ゲーム脳の恐怖」が世間に認知されたのは、その論が正しかったからではなく、巷間に遍在するもやもやとした恐怖感に、当を得たネーミングをしたからに他ならない。それ以上のものではない。

だとするならば、いかな斎藤環氏が反論をしたとて、「『ゲーム脳の恐怖』の恐怖」を打ち消せないのは明らかだ(いや、これはこれで必要なコトなんだけど)。むしろ、巷間にモヤモヤと存在する恐怖感のようなもの自体に切り込んでいかなければならない。

例えば――

なぜ子供はゲームにはまるのか
~親子とゲームの良い付き合い方

こんな本を書きたいな、と思っている。そして願わくば、みのもんたに紹介してもらいたい(笑)。

奥さん!
お子さんがゲームで遊ぶのを
禁止するばかりじゃダメなんです!
ゲームは使いようによっては
お子さんの発達を促すんですよ!

子供の生活にとって、最早TVゲームは切っても切り離せないものなのだから、ならば「こう付き合うべきだ」という提言を、ゲーム制作者側からやっても良いのではないか。やるべきではないのか。児童心理学者にも教育評論家にも書けない類の提言を。


とりあえず出版予定はないけれど、目次だけでも書き始めておこう。

【追記】
ゲーム脳に反論するよりも、ゲームリテラシーの必要性を広く説いた方が良いだろう、という意見は、既にIGDAで新さんが云ってますね。

なんでも「ゲーム脳」

GDCで新さんに何遍も会ってたんだから、云えばよかった。うーむ遅かりし由良の助。

tsurumy at 22:22 | リンク | コメント (2) | トラックバック (0)

GDCA生涯功労賞を受賞したEugene Jarvis氏のコト

伝説的アーケードゲーム開発者Eugene P. Jarvisが第5回Game Developers Choice Awardsの生涯功労賞を受賞(IGDA.JP)

GDCAの生涯功労賞(Lifetime Achievement Award)については、以前の嘘六百で採り上げたコトがある(第3回・横井軍兵氏第4回・Mark Cerny)。鶴見は、今年は選考委員をやってはいないが、昨年の議論の流れから云ったら、Peter Molyneuxか、Eugene Jarvisのどちらかだろうな、とは思っていた。

Eugeneの作としては、云うまでもなく「Defender」が超有名で、このゲームがなければ「ファンタジーゾーン」も生まれていないし、Mark Cernyもゲーム業界を志していなかったかもしれない。押しも押されもせぬ大看板だ。

だがしかし、鶴見的には何と云っても「NARC」の印象が強い。いまだに「NARCの主人公のマネ」という宴会芸が持ちネタだったりする。もちろん、それが分かる面子の前でしか披露しないのだが。――実は、Eugene本人の前で披露したコトもあったのだが(笑)、その時のEugeneの言葉がイカしてる。

「俺が世界で初めてゲームにdecapitationを入れたんだぜ♪」


「decapitation」=「首を切るコト。斬首」

ビデオゲーム業界の大先輩であり、いい歳したジジイ(敬称)が、小僧のような鶴見に向かって、イタズラっ子の顔でウィンクしてこう云い放ったのだから、何とも爽快だ。いやいや、負けてはおれませんな。いつかは、あんなジジイになりたいものだ。

ちょっと気は早いけれど、来年の生涯功労賞はPeter Molyneuxなんだろうなあ…。

tsurumy at 21:10 | リンク | コメント (4) | トラックバック (1)

Game Developer Magazine最新号のコト

Game Developer Magazine, Feb. 2005

Game Developer Magazine最新号(2月号)の表紙がラチェット君だったので、何だろうと思ったら、「POSTMORTEM(事後分析)」で「Ratchet & Clank: Up Your Arsenal(ラチェット3)」についての原稿が掲載されていた。書いたのは、インソムニアック社のチーフ・クリエイティヴ・オフィサー(CCO)であるトコロの、Brian Hastings。

この「POSTMORTEM」、いつも楽しみにしてるんだよね。本来は外から窺い知るコトの出来ない、ヨソ様のプロジェクトの内情がバッチリ書かれているワケだからして。特に、これは編集部からのリクエストなんだろうけど、「良かった点」「悪かった点」をリストアップしてあるトコロはグッド。

でも今回は、内情を知っているラチェット3。身内ビイキを排して辛めに評するならば――ちとアッサリし過ぎのような気がする。

なんて書くと誤解を招くかしらん。いやいや、文章は平易で解りやすいし(英文だけど)、良かった点も悪かった点も、漏れなく綺麗に整理されてる。ただ今回の記事、内情を知っていれば、修羅場についての記述などはとても腑に落ちるのだけれど、知らない人間が「実感を伴って」参考にするのは難しいのではないか。「ああそうなの」と、軽くスルーされてしまいそうな気がする。実情は、むちゃくちゃ濃ゆい修羅場で、参考になる実例が山ほど詰まっていたんだけどね。

逆に云えば、書かれていない行間にこそ、「ラチェット成功の秘密」が隠されているのである――なんて格好つけすぎか(笑)。

(内容については触れないので、各自読んでくれたまい)


ゲーム業界の金言に、「ゲーム作りのスキルは、本数を作れば作るほど上がる」というモノがある。いつ終わるとも知れぬ長期プロジェクトに1本関わり続けている人間よりも、短期プロジェクトを数本終わらせた人間の方が伸びる、というコトだ。

この金言と併せて考えるのならば、やはり修羅場は実際にくぐらないと解らないってコトか。当たり前過ぎる結論で申し訳ないが、やはりそういうコトだ。


ところで、先立つコト2年前のGame Developer Magazine 2003年6月号では、「ラチェット1」についての事後分析が掲載されていたりする。書いたのはインソムニアック社長のTed Price。こちらは、当初のPS2プロジェクトが紆余曲折の末にポシャり(!)、そこから不死鳥のようにラチェット&クランクが生まれた経緯を記している。役立つかどうかは読者次第だが、誰もが肯ける内容であるコトは保証出来る。というか、鶴見は大いにウンウンした(関係者だってのに)。そしてきっと、ゲーム制作者ならば誰もが。

是非ご一読を。

tsurumy at 10:00 | リンク | トラックバック (0)

2005年02月19日

費やした時間に報いるデザインのコト

インフルエンザのせいで、大量の仕事がキューに並ぶ羽目になってしまった。いったんは治りかけたのだが、某新年会に出席したトコロ、再び悪化。ほぼ1週間の寝込みロス。ああ、新年会なんて行くんじゃなかった…。


さて、大量の仕事列に取りかかる前に、頭の体操をば。

プレイヤー中心のゲームデザインから、プレイデータ中心のゲームデザインへ(発熱地帯)

途轍もなく誤解を招きそうなタイトルのエントリーだ(笑)。案の定、コメント欄を眺めると、既にDAKINI氏が提起しているものと異なる解釈をされている方々がチラリホラリ。このタイトル、

「スキル評価のゲームデザインから、コスト評価のゲームデザインへ」

とした方が本質を外さないと鶴見は考えるのだが…いかがだろう。もちろん、ここで云う「コスト」とは、「プレイヤーが費やした**」を意味する。コンシューマゲームにおいては「消費時間」と等価であり、アーケードゲームにおいては、そのまま「投入金額」だ。

スキル評価というのは、端的に云えば「スコア」。通常、プレイヤーは特定のゲームに時間とかお金を費やせば費やすほど学習し、スキルが上がる。スコアが上がる。上手ければ全国ランキングのトップ(所謂「全一」)を取れるかもしれない。――しかし、上手くないプレイヤーは、同じスキルレベルに行き着くためには多大なコストを強いられるだろうし、あるいは、いくら時間とお金を費やそうがスキルレベルは頭打ちになり、そこまでたどり着けない場合すらある。個人差は極めて大きい。

「趣味のゲーム」ならば、それでも良かろう(そもそもコストなぞ度外視するから「趣味」なのだ)。しかし、「娯楽のゲーム」ならばNGだ。コスト(消費時間/投入金額)に見合った評価(褒賞)がなければ娯楽たり得ない。

例えば、もしドラクエが、ごく一部の上手いプレイヤーしかエンディングにたどり着けないようなデザインだったら、ここまで国民的ソフトにはなっていないだろう(当然)。あるいは、パーティが全滅したら以前のセーブポイントからやり直し、だったとしても。

「ヘタでも、時間さえかければどうにかなる」これがポイントだ。

死んでも全てが無になるワケではなく、時間を費やしさえすれば先へ進め、エンディングまでたどり着ける――RPGなどでみられるそうした保証こそが、ゲームを少数の趣味から誰にでも遊べる娯楽へゴラクエと変貌させ、市場を大きく拡大させたのだと考える。RPGが市場の大半を占めるのも、むべなるかな。

とするならば、ABA氏の云う「幅のやりこみ」も、ゲーム内に仕込まれた創造物マップを塗りつぶす、という意味ではRPGと等価だ。違いは、長い一本道か/短いツリーの束か、だ(「長さ」と「幅」とに分類出来るね)。

いずれにせよ、RPGの隆盛以降、世間的には「費やしたコストに見合った褒賞が得られるべき」だとする要求が大きくなり――それに対する回答の発展形が、DAKINI氏の指摘する「プレイデータ中心のデザイン」なのだと、鶴見は考える。そんなに新しいトレンドじゃない。いやむしろ…欧米のアーケードに古くからみられるリデンプションなどを思い起こせば、先祖返りとすら云えるのではないか(つうか、リデンプションから着想を得たっぽいよね、最近のカード払い出しアーケードゲームは)。

さて、アタマもあったまって来たし、仕事すっか!(涙

tsurumy at 06:47 | リンク | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年02月16日

森「ゲーム脳」昭雄に強く憤っているコト

やはり来た! 来やがった!

寝屋川の17歳刃物少年、典型的な「ゲーム脳」(ZAKZAK)

森教授は「ゲーム漬け生活は理性や道徳心を養う前頭前野をまひさせ、思考力が低下し、激情的でキレやすくなる」と指摘。「笑顔だった小学校の卒業アルバムと、無表情な中学校の卒業アルバムとの比較などからも、ゲーム脳の特徴と一致する」と分析する。

ZAKZAKは、森が事件とゲーム脳とを結びつけるコトを期待して、コメント取材を行ったのだろう。そして森は、今回の事件固有の背景等を吟味するコトなど全くせずに、自説のテンプレートに落とし込んだ、と。

これはいわゆる、あれだ。「他の要素を無視して、一つのコトを得意気に持ち出す」という、原義通りの

バカの一つ覚え


というヤツだ

ZAKZAKの予断に満ちた取材態度も腹立たしい。森にコメントを求める前から既に見出しを決めて、ビデオゲームを槍玉に挙げるつもりだったのだろう。というか、森にコメントを求めるという時点でスキャンダル・ジャーナリズムとして認定――しようと思ったが、所詮は夕刊フジなのでしょうがないか。糞・オヤジ・ジャーナリズムめ。

それにしても、さらに腹立たしいのは、シメのコメントだ。

森教授によると、ゲーム脳現象は、テレビゲームに限らず、過度のインターネットや携帯電話のメールなどでもみられるといい、「携帯に熱中していた、奈良・女児誘拐殺害事件の容疑者についてもゲーム脳が疑われる」と話している。

痛ましい事件に乗じて、自らの(トンデモ)説を流布しようと企むのは、著しく品性が下劣だと云えないか。鶴見に云わせれば、「ゲーム脳についての研究生活は品性や道徳心を養う部分を麻痺させ、功名心が肥大し、バカの一つ覚え行為を行いやすくなる」だ。

もう、ビデオゲームを悪者にするためだけのラベリング「ゲーム脳」という云い方は止めて、発見者のご芳名を戴き、

「森昭雄脳」


と呼ぶ事にしてはどうか。

【追記】
インフルエンザで熱が高く頭痛がするのだが、憤りのあまり書いてしまった。ああもう、腹が立って腹が立って、さらに熱が出てしまったぜ。がほげほごほ。ごほ。ごほごほ。

tsurumy at 22:12 | リンク | コメント (1) | トラックバック (1)

2005年02月14日

「ビデオゲームが悪者になる前に」と考え(過ぎ)たコト

「人付き合い少ない、おとなしい子」 教師刺殺の17歳(asahi.com)

本サイトでは、ニュースネタは極力避けようと思っていたのだが、切込隊長のブログ(巡回先、ね)経由で、こんな記述を発見してしまったからには、いち早く書いておかねばなるまい。

小学校高学年のころ、少年の自宅1階にある3畳ほどの自室はフローリングの床いっぱいにゲームソフトが積み重なっていた(中略)様々な種類のゲーム機器があり、仲のいい友人たちがゲームをしによく集まった。少年は格闘技ものが好きで「きのうは夜通しゲームをしていた」と話すことがあった。一方で学校を休むことも多かったという。

他のニュースと読み比べてみたが、asahi.comがいちばんマシだ。この記事を、真っ当な読解力を持った人間が読む限りでは、少年にとってのビデオゲームとは――

引きこもり気味の少年が
友人と接触する機会を作った
「コミュニケーション・ツール」

であったコトは明々白々だからだ(もっとも、夜通しゲームをして学校を休む、という付き合い方に問題はあるが)。

――でも、現れちゃうんだろうなあ。犯人が「ゲーム好き」と読んだだけで、脊髄反射的に「ビデオゲーム=悪」と思いこんじゃう輩が。そして喧伝されちゃうんだろうなあ。お子さんをお持ちの親御さんとかで、信じる人も出ちゃうんだろうなあ。半信半疑だとしても、影響されちゃうんだろうなあ。その手の風説は「流布したもん勝ち」になっちゃうんだろうなあ。俺らの反論なんて、耳に入らないんだろうなあ。

気が早い? しかもネガティヴ? いやいや、そんなもんだって。

嘘六百は、ビデオゲームのポジティヴ効能を無視し、検証されていないネガティヴ面のみを強調し――ビデオゲームを不当に貶めようとするプロパガンダに与する勢力には、(竹槍をもって)抗戦するコトをここに宣言しときます。

【追記】

元記事を読むと、少年はビデオゲーム以外のコミュニケーション・ツールを持っていなかったっぽい。他ジャンルで敵わない友人に対して、ビデオゲームだけでは優越感を持てるし、それを維持するために「徹夜」もしちゃったんだろう。それが、より一層、ビデオゲームへの依存を高める結果になってしまったのだとしても。

ああ、これはまさに「中毒」の構造だね。

と云っても、「ビデオゲーム中毒」と「精神病」と、ましてや「犯罪」とが1対1に相関するワケでもないし、そんなコトを云い出すトンデモな人はまさか居ないだろう。

――あ、居るかも。ゲーム脳の人とか(考えすぎかねえ?)。


それにしても、小学生の子供がゲーム中毒になるのを見過ごしていた両親というのは如何なものか。

tsurumy at 23:39 | リンク | コメント (3) | トラックバック (1)

2005年02月12日

18年後に果たされた「ラジアメ」の約束のコト

つい最近、「鳥取県の歌」の作者からメールがあった。なんと18年もの時を隔てて(!)約束を果たしていただいたコトになる。感無量だ。こんなコトってあるんですなあ。


1980年代の前半に、「ラジアメ」という伝説的なラジオ番組があった。キー局はTBS。

正式名称は「大橋照子のラジオはアメリカン」と云い、提供はナムコ。当時のゲームファンの間では絶大な聴取率を誇り、30代以上のオールドゲーマーならば、この番組のみで流されたナムコのCMの数々が、今でも耳に残っているコトであろう。『ドルアーガの塔』のゲームオーバーに合わせて

♪ゲームは、ナムコ~

と呟いちゃうソコのアナタ。そう、アナタのコトです。

ついでに云えば、小林克也の物真似で「TV Game, No.1!」ってカウントダウン始めちゃう人とか(ディグダグ)、「鈴鹿サーキット」の「ズ」にアクセントを置いちゃう人とか(ポールポジション2)、「リブルとラブルで囲もう 見つけてバシシ」って口ずさめちゃう人とか、CMネタは尽きないんだけど涙を呑んで割愛。

で、ラジアメの人気コーナーに「おもカセ」(おもしろカセットベスト5)というのがあった。リスナーから送られた、自作の歌とかコントとか、その他ノンジャンル何でもアリの、面白いネタのカセットテープを紹介するコーナーだ。

例えば、リスナーが勝手にアレンジした、「サザエさん」のテーマ曲の数々。マイナー調にアレンジした「陰気なサザエさん」もあれば、必殺仕事人の殺人道具SEが飛び交いトランペットが鳴り響く「必殺サザエさん」など数十曲もあり、後に「ラジアメファンの集い」でも頒布されたほどの名ネタだ(ちなみに頒布版では、B面に中潟憲雄氏自らによる「源平討魔伝」アレンジ版が収録された)。

例えば、「ビバ!クイズ」。富山ローカルの子供クイズ番組なのだが、続出する珍回答っぷりはリスナーを笑いと涙のズンドコに落とし込んだものだ(→珍回答集)。

例えば、「動物園の歌」。

(陰気なメロディにのせて)
動物園に行きました
アザラシ一匹おりました
背中に何か付いているよ
どうやらアレはアザらしい

とあるリスナーが送ってきた歌が大ウケで、その後、「どうやらあれは、**らしい」で終わる「動物園の歌シリーズ」がラジアメを席巻したり。


――ああ、いかん。全然本題に進まない。

でだ。

1982年上半期の「おもカセ・グランプリ」に選ばれた作品こそが、そう、やっと本題であるところの、「鳥取県の歌」なのだ。

(「与作」のメロディーで)
鳥取県は 人口が全国で最下位
人がいない 人がいない

鳥取県は よく島根と間違えられる
島根じゃない 島根じゃない

鳥取県には 暗いイメージがある
ホントは明るい ホントは明るい

鳥取県こそ 日本の首都だ
日本の首都だ 日本の首都だ


(歌詞はウロ覚えにつき間違ってるかも)


18年前、「Beep」1987年6月号の特集記事の中で、「『鳥取県の歌』をラジアメに投稿された方、お手紙ください」と書いたコトがある。確か、「芋吉のナムコ青春日記」と題した記事だったか。

そしてつい先週の日曜の晩、まさにその「鳥取県の歌」の作者からメールがあったのだ。なんと18年もの時を隔てて(!)約束を果たしていただいたコトになる。

本人曰く、「鳥取県人らしい消極性で(笑)」、18年も経ってからメールしたのだとか(笑
また曰く、「日曜日深夜のラジアメが放送されていた時間帯にメールした」とも。

ちなみに、その作者の方、現在では鳥取県から「憧れの」東京に移り住み、ラジアメと同じく大橋照子さんがパーソナリティを務め、ナムコが提供しているラジオ番組「大橋照子のテルネット・イン」で、リスナースタッフをされているのだとか。

ああもう、一口に説明出来ない色々な想いが渦巻いて、なんとも感無量だ。こんなコトってあるんですなあ!

【追記】

大橋照子さんと云えば、鶴見とはアマチュア無線技師として同期の仲だ。

というか、単に鶴見が、大橋さんが出演していた「初級ハム講座」(日本短波放送→ラジオたんぱ→現・ラジオNIKKEI)という番組で勉強して、大橋さんと同じ期の国家試験で合格したってだけなんだけどね。

そして大橋さんは「初級ハム講座」に続く「子門と照子のQSOジョッキー」という、やはりアマチュア無線関係の番組でもパーソナリティを務めており、これも鶴見のお気に入りだった。もちろん「子門」とは、「およげたいやきくん」で一世を風靡した子門真人氏のコト。ちなみに子門氏のコールサインはJI1KLK(おお、サンドイッチコールだ!)。その番組で子門氏のファンとなった鶴見が、地元にドサ回りでやって来た子門氏のサインを貰った後に、ゲーム業界一の子門真人を目指したという出来事は、鶴見の伝記を綴る上で欠かせないエピソードである(笑

ちなみに、「テルネット・イン」だけでなく、「ラジアメ」もインターネット・ラジオとして復活しているらしい。こちらは2代目パーソナリティ斉藤洋美&鶴間政行のコンビだとのコト。有料じゃなかったら聴くんだけどねえ…。


【追記】

大橋照子さんからコメントいただいちゃいました♪


日付は奇しくも2月14日。素敵なバレンタイン・プレゼントとして、生涯忘れるコトはないでしょう。

大橋さん、本当にありがとうございました。

そして、嬉しいきっかけを作ってくれた、「鳥取県の歌」作者さん、本当にありがとうございました。

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2005年02月07日

「見城こうじの空想ゲーム学」のコト

ノイズの見城こうじ氏が、サイトのリニューアルに合わせてブログを立ち上げたとの由。その名も「空想ゲーム学」。カッコ良すぎる。ウチの「妄想ゲーム学」(今名付けた)であるところの嘘六百とは大違いだ。

元々、見城氏のエッセイは肯ける点が多く、こまめに読んでいたのだが、最近は読むコトが出来ず悲しい想いをしていたのだ。まあいい。きっと忙しさにかまけて、更新がついついおろそかになったまま、「機会を見て、ブログ化してやる!」なぞと牙を研いでいたのであろう。断言出来る。間違いない。

――なぜなら、鶴見もそうだったから(笑

実はこのサイトも、実質的な立ち上げは向こうと同じく1月31日だったりするワケで。同じようにゲーム雑誌のライター出身なゲーム制作者が、同じようにストップしていた書き物を、同日にブログで再開。なんとなく、シンクロニシティ。

違いは、

向こうが「空想」で

こちらが「妄想」な

なトコロだけか(笑

ともかく、記念にトラックバックなんぞを撃ってみました。Movable Type 3.15は、トラックバックを自動的に撃ってくれてラクチンだね。

【追記】

ホントは、発熱地帯で、久しぶりにポジション・トークでない興味深い記事が載っていたので、それに合わせて「ゲームの難易度について」思うところを書こうかと思っていたのだが、今日はそれどころではない事件?が勃発したので、それはまた今度というコトで。

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2005年02月01日

六百デザインとは?

0600design
「六百デザイン」というのは、ワタシ・鶴見六百の仕事用の屋号だ。
ちなみに、六百デザインの「デザイン」とは、「ゲームデザイン」とかの「デザイン」です。欧米のゲーム業界では「designer」と言えば「ゲームデザイナー」を指し、日本で言う「デザイナー」は、向こうでは「artist」と呼びます。

業務範囲は、TVゲームの企画プロデュースおよびコンサルティング、TVゲームのゲームデザイン、および仕様書・シナリオ等の素材作成、キャラクター・イメージの企画プロデュースおよびコンサルティング、海外制作TVゲームのローカリゼーションにかかるコンサルティング、等々。
(過去の参加作品については、アーカイブの「参加作品」を参照されたい)

(株)ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCEJ)の仕事をメインにやっているが、エクスクルーシヴではないので、現在の仕事と競合しなければ、他のメーカー/プラットフォームの仕事も(NDA締結を前提に)受注できなくはない。御用の向きは、ご検討されたし。

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